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マヤ文明に見られる美-メキシコの遺跡から-
図:ユカタン半島
「マヤ」という、やさしい、ふしぎな語感を持つ言葉。神秘的な雰囲気の漂うこの文明の栄えた地は、メキシコの南部に広がるユカタン半島を中心に5ヶ国にまたがっている。。マヤ文明の地には、3000メートルを越える火山が帯状に連なる山岳地帯が広がっているかと思えば、その中部には何百種という生き物が生息する熱帯ジャングルが大地一面を覆いつくしている。ところが、メキシコ領に位置するその北部は半乾燥気候で、石灰岩の地盤の表面があちこちで陥没して、「セノーテ」と呼ばれる泉を作る実に多様な自然生態環境である。マヤ文明は、このように多様な地に栄えた。実は、この多様性こそがマヤ文明を理解するキーワードの一つであり、文明社会成立後の歴史二千年を通して、決して一つの勢力によって統一されることのなかった文明の特徴なのである。文明の最盛期であると考えられている「古典期(3世紀~10世紀)」には、マヤ地域各地に60を越える王国が存在していたといわれている。
こういった、各地に存在するマヤ文明の古代都市遺跡は、かつてそれぞれの都市を取り巻く自然生態環境の中で独自の美を創造し競い合って演出していた。そこに見られる美しさは、現代のわれわれを魅了してやまないものである。メキシコは、早くからこのマヤ文明の美しさを地域固有の文化資源として、観光開発に利用し売りだそうと考えた。ユカタン半島北部に存在するマヤ文明の古代都市遺跡の中には、カリブ海のすぐ近くにあるものも多く、カリブ海と神秘的なマヤ遺跡という観光開発ルートに組み込まれ、今では年間百万人を超える観光客が訪れる遺跡も珍しくない。
写真1:カリブ海を背景にしたトゥルム遺跡の建造物
写真2:トゥルム遺跡を訪れる外国人観光客
遺跡のすぐ隣に美しいカリブ海が広がるトゥルムもその一つである。マヤ文明の遺跡としては極めて小さなこの後古典期後期(13~16世紀)の遺跡は、カリブ海のエメラルドグリーンが広がるその背景と見事な調和をかもし出している。スペイン人が初めてユカタン半島にやってきた1517年、彼らがユカタン沖を航行する船中から見て驚嘆した「塔」をもつ街がこのトゥルムだといわれている。海沿いに存在するのは、ユカタン半島をめぐる沿岸交易路の港の一つとして栄えていたからだろう。今はほとんど残っていないが、往時は、この街の建造物の壁には多彩色の壁画が描かれていた。背景の海は当時もほとんど変わっていなかっただろうから、その美しさはこの港街を訪れる各地の商人たちを感嘆させたことであろう。
写真3:パレンケ「碑銘の神殿」
写真4:パレンケ「大宮殿」
ユカタン半島の北西部の低地、密林地帯の中に、マヤ文明の都市の中でも南東部のコパンと並んでもっとも美しいと賞賛を集める都市がある。それがパレンケだ。バックに緑色の映える森を背景にしてそびえたつ碑銘の神殿や見張り場か天体観測所であったと考えられている四重の塔の美しさには思わず引き込まれそうになってしまう。パレンケには他のマヤ都市に見られるような石碑や祭壇がない代わりに、各建造物の正面は漆喰のレリーフで飾られていた。近年の発掘で新たに発見された漆喰レリーフが博物館に展示されているが、その写実的な描写や色使いには驚かされる。
写真5:春分の日のチチェン・イツァ「ククルカン」ピラミッド
写真6:チチェン・イツァのプウク様式建造物
ティカルやパレンケ、コパンといった古典期に密林の中に栄えた都市群が放棄されたころ、ユカタン半島北部で栄えたのがチチェン・イツァだ。マヤ文明のピラミッドの象徴ともいえるククルカン・ピラミッドの均整のとれた形は、天からククルカンが降臨すると宣伝になった春分の日を中心に、世界中から数多くの人が一目見たさに訪れる。都市の南にあるプウク様式の建築群もなかなかのものである。この区域では、幾何学紋を中心に建物正面を飾る様式がはやった。
16世紀のスペイン人たちの記録によれば、古代マヤの人々は、「斜視」や「扁平な額」に美を見出し、支配者階級の人々はこぞって子供たちにこういった美が見られるようにしていたという。おそらく古代マヤ人たちは独自の美的感覚を持っていたに違いない。そして、彼らの子孫たちが演出する現在のマヤの国々の景観もこのマヤ文明の美と無関係には語ることはできないのである。
(写真1,5:多々良穣、写真2,3,4, 6:中村誠一)