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5年ぶりに調査地のセントルイスに戻ってきて

 客員研究員の野澤豊一です。現在、日本学術振興会の「頭脳循環を活性化する若手研究者海外派遣プログラム」により、米国のワシントン大学セントルイスに派遣されています。派遣期間にあたる1年のあいだ、セントルイスで黒人キリスト教会とその音楽について現地調査をしながら、ワシントン大学のスタッフと共同研究を進める予定です。それらの様子を何度かにわたって、この「メンバーズコラム」でお伝えします。

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 今回は約1年という長期の滞在なので、ある程度の条件がそろったアパート探しや家具の購入、自動車の購入や免許証の取得、その他諸々の準備のために何日のもの時間を取られてしまいました。そのため、現地調査もワシントン大学での共同研究も、ようやくとりかかったところ、という具合です。ですので、詳しい調査・研究内容についての報告は次回以降のコラムにゆずることにして、初回は滞在先のセントルイス市のことなどを中心にご報告することにします。

市のシンボル「アーチ」


 現在滞在中のセントルイス市は、アメリカ中西部の中規模都市です。市内の人口は約35万人、周辺地域を含めた都市圏(メトロポリタン地区)の人口は約280万人。ミシシッピ川に面した要衝として発展し、1904年には万博とオリンピックが開催されたほどの主要都市だったのですが、第二次世界大戦後に状況は一転。市内の空洞化・スラム化が急速に進んだ都市として、全米でも典型的な例になってしまいました(このトピックについては歴史的な研究も出版されています)。今をさかのぼること約10年前、そうした事情を何も知らずに初めてセントルイスを訪れた私は、街の真ん中に位置するショッピングモールがほとんど空き店舗になっているのを見てとても驚いたものです。歴史的な街なので、中心部には美しい建築物が並んでいるのですが、その視覚的なギャップがかえって衰退の印象を強めたのかもしれません。
 ところで、私にとってセントルイス市は、大学院時代の調査地でもあります。ここを調査地に選んだ理由は、何から何まで車中心にデザインされたアメリカ社会にあって、自転車と公共交通機関(電車とバス)で市内のかなりの部分をカバーできるという利点があったからです。当時(2001年、2005~2006年)は滞在費が限られていたので、車を買うことはほぼ不可能でした。また、ニューヨークほどの大都会に住めば車は必要ありませんが、そうすると滞在費がひどく高くつきます。その点、市内エリアの端から端がせいぜい10km強とコンパクトで、なおかつ物価も安いセントルイスは、当時の私にとって適当な調査地だったのです。(もちろん、市内にアフリカ系住民の人口が多く、私の調査対象である黒人教会が多くあったことも大事な理由でした。)ただし、主要な道路には歩道や自転車用のスペースがない場合が多く、特に暗くなってから自転車で移動をしていてヒヤリとする場面もありました。
 今回は自動車を購入しましたが、これは以前の調査との最大の違いのひとつです。移動が自由になった便利は言うまでもありませんが、それによって「普通」のアメリカ人の生活スタイルを味わうことができます。特に、いったん車で移動を始めると、あまりにも簡単に隣の地区やストリートを通り過ぎて目的地のあるエリアにたどり着けてしまうことに驚きます。商業地区と住宅地がモザイク状に入り混じるセントルイス市の場合、中産階級の人々が住むエリアと(主にマイノリティからなる)貧しい人々の住むエリアが隣接しているケースが少なくありません。しかし、市内の東西をはしっているハイウェイを使ってドライブすれば、そうした事実をあまりにも簡単に無視できてしまうのです。こうしてアメリカ社会の根本的な問題のひとつを実感できることは、アメリカ社会について知るうえで、かけがえのない経験です。
 さて、セントルイス市の空洞化についてはつい先ほど書いた通りなのですが、その一方で明るい兆しもないではありません。今回、市内のあちこちを所要でめぐっているうちに、以前に調査で訪れていた頃と比べて、一部のエリアがずいぶん小ぎれいになっていることに気づきました(こうした事実にいち早く気づくことができるのも、車のおかげです)。以前はほとんど廃墟のようだった歴史的な中心地「ダウンタウン」にもお洒落なお店やレストランが入っていますし、その他のいくつかのエリアでも似たような変化を感じることができます。そういえば、ちょうど私が2006年にセントルイスを離れる頃に、市が進めつつあった地域再活性化の試みについてあちこちで耳にしていたのを思い出しました。市内の人口も、この数年で1950年代以来の増加をみたということです。私にとって興味深いのは、こうした変化が人種や階級の異なった人々に与える多様な影響です。というのも、再活性化が進むことで周辺の家賃も高騰し、マイノリティや下層階級の人々が地域を離れざるをえない、というケースもあるからです。数年程度のスパンの調査ではドラスティックな変化をじかに見ることはできないでしょうが、調査対象とする地域が過去も現在もそうした変化の途上にあり続けたということを念頭におくことは、不可欠なことです。

教養学部があるダンフォース・キャンパスの「玄関」にあたるブルッキングズ・ホール


 最後に、派遣先の研究機関についても簡単に紹介しておきましょう。現在私が所属しているのは、ワシントン大学セントルイス(Washington University in St Louis;略してWUSTL)のCollege/Graduate School of Arts & Sciences(直訳すると「人文・自然科学学部/大学院」ですが、ニュアンスとしては「教養学部」というところでしょうか)にある、人類学科(Department of Anthropology)です。アメリカの大学で「人類学」といえば、文化人類学、形質人類学(=自然人類学)、考古学、言語学(言語人類学)の4部門を総合した分野を指すのがふつうです。WUSTLの人類学科の場合、36人の教員のうち、文化人類学者(こちらでは"sociocultural anthropologists"と呼ばれます)が14人、形質人類学者が10人、考古学者が8人、その他(言語学者、文化心理学者など)が4人というラインナップです。全米でも屈指のメディカル・スクールを要するWUSTLには、自然人類学者の割合が他大学よりも多いのだそうです。また、文化人類学者のなかでも、特に「医療人類学」と呼ばれる分野を専門とするスタッフが多いのですが、これも同じ理由によるのかもしれません。

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