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雲南ラフ族調査開始しました
2012年3月1日に金沢を出発し、2日の深夜に中国雲南省の昆明市に到着しました。これから半年間、雲南省思茅市瀾滄拉祜族自治県を中心に、雲南少数民族の文化・社会についてフィールドワークを実施します。
中国に到着し、中国の連携機関である雲南民族大学民族文化学院の劉勁栄院長と会いました。昆明の名物料理「過橋米銭」をご馳走になった後で、近くの「圓通禅寺」を見学しました。中国の人たちが、線香などの祭祀道具を買って、顔の前に両手を合わせるかたちで持ち、何回も頭を下げて拝んでいました。帰り際に、瀾滄県での調査許可証のコピーをいただき、調査に出かける準備ができました。
昆明で2日間本屋周りをして文献を集めた後で、3月7日に調査に出発しました。早朝に昆明から景洪(西双版納)まで飛行機で飛び、景洪からミニバスに乗って4時間後の午後1時に瀾滄県の中心・勐朗鎮に着きました。勐朗鎮のバスターミナルで、「農村客運」と呼ばれるさらに小さいミニバスを探します。ミニバスは見つかりましたが、客7人乗りの座席はまだまばらで、それが埋まるまで、運転手は出発しない様子です。時間が決まっているのでなく、客が集まったら出発するという具合なのでした。
ミニバスはようやく出発しましたが、すぐに勐朗鎮の市場前に停まりました。他の乗客たちが買い物をしたいということでした。しばらくのち、乗客たちも集まり、ミニバスが出発しました。車内では、お菓子や果物が開けられ、私も青いマンゴーを一片もらいました。
誰も私を日本人だと思っていないようです。中国は不思議なところで、私が下手な中国語を話しても、外国人だと思われることはほとんどありません。国が大きく、いろんな方言や訛りで話す人が多いためかも知れません。東南アジアの華人相手に話すと、日本人の訛りだねと言われることも多いのですが。
阿永村は勐朗鎮から約18キロの距離にあります。阿永村の入口に着きました。私はミニバスを降りて、運転手に10元を払いました。たぶん目的地の拉巴まで20元ぐらいでしょう。その半分より手前のところですが、このくらいかと思い、値段を聞かずに払うと、運転手も無言で受け取りました。車は去っていきました。
阿永村に到る山道の入口には、書記が停めたバイクの前に座って待っていました。車探しにも手間取り、出発も遅れたので、ずいぶん待っていたのではないかと思います。しかし私が「待ったか」と聞くと、「今来たところだ」と答えました。こういうところは、ラフ人と日本人は、付き合い方が似ているように思います。
あとで書記に聞くと、太陽能をつけるのに約2000元かかるが、400元を政府が援助してくれるそうです。別の住民に聞くと、太陽能をつけると、それをのせるシャワールームを作ることになるので、全部で3000~4000元かかり、政府援助はほんの一部にしかならないということでした。いずれにせよ、中国政府は、辺境村落の物質的な開発に積極的なようです。
と、バイクはコンクリートブロック塀で囲まれた家の前に停まりました。書記の家です。村の中の道も、2008年8月に滞在したときには雨でどろどろだったのに、コンクリートで固められた道路になっています。そんな変化もあり、村の風景が変わっていたので、書記の家に到着したときには、不意を突かれたような感じでした。あれ、もう着いたのと。
家に入ると、書記の義母であるおばあちゃんが出てきました。「もう90歳だよ」と本人は言います。正確な年齢かどうか分かりませんが、高齢なのは確かで、また会えて嬉しくなりました。
書記の家は、煉瓦造りの漢族式の家です。村の家もほとんど漢族式の家で、茅葺き竹作りのラフ族伝統の家は残っていません。町に比較的に近い阿永村は、政府の近代家屋化政策の恩恵に早くあずかったと言えるでしょう。
多くの家は平屋で、真ん中に居間があり、その両側に家族の人数に会わせて寝室が作られています。土間作りで、家の中に入っても靴を履いたままです。居間を入った正面の床にはたいていテレビが置かれているか「焼香所」(sha tu kui)があります。その反対側には大きなソファーが置かれて、人々はそれに横たわってくつろぎます。書記の家の居間には、共産党歴代幹部や高名な軍人たちのポスターが貼られていますが、阿永村では書記の家だけのことのようです。
村に着いたのが午後2時半ぐらいで遅かったのですが、書記が私を思って、食事を作ってくれました。午後4時にそれを書記と書記の義母と食べました。書記の妻は、勐朗鎮の医療センターで働く娘のところに行って留守でした。
食後しばらく書記の義母たちと話していましたが、早朝から移動つづきで、疲れが出てきました。「寝たかったら、あの部屋に自由に寝ろ」と言われていた言葉に甘えて、その部屋に行ってベッドに横になると、まもなく寝入ってしまいました。
一時間半ほど寝て、目を覚ましました。もう午後6時近くですが、それは北京時間で、北京から遠く離れた村は、朝7時でもまだ暗く、午後7時半ごろになってようやく暗くなります。外はまだ明るいので、村を歩いてみることにしました。
村を歩いて、村で見たもの、再会した住民から聞いた話については、また別稿でお伝えします。
辺りも暗くなり、午後8時ぐらいに私は書記の家に帰って来ました。家の横に設けられた台所のテーブルに書記を向かい合って座り、話をしました。書記は「(今から)ご飯を作るね」と言いました。私は「これから作ると何時になるのだろう」と思いましたが、特に要らないとも言いませんでした。書記は私と話しながら、ときどき携帯で電話をかけます。そのたびに、村の男たちがひとりふたりとやって来て、テーブルの周りや向こうの炉の周りに座りました。
書記は、電話をかけて、鶏を一匹もってきてもらいました。1~2人がそれをしめて、羽根をむしって料理します。足りないと思ったのか、書記はまた電話をかけて、もう一匹鶏をもってきてもらい、別の1~2人が同じように調理します。鶏肉のお粥を作るようです。お客用のごちそうです。
私と同じテーブルに座ったラフ族の男たちも、酒が入っているためか、よく話します。中国では日本軍の侵略と横暴、抗日運動と新中国建国を描いたドラマが毎日のように放映されています。ラフ族住民はテレビドラマが好きで、毎晩のように見ている人もいます。そこに出てくる、中国人を虐める日本軍人が、日本人のイメージです。
「日本人は怖い。中国人を殺し、女を強姦しただろう」とテーブルに座った男が私に言います。聞いている私は居心地がよくありませんが、相手は日本人の私を責めるというよりは、正直な印象を話したくて話している様子です。
「ばかやろ!」「みしみし」「よし」「きてぃりぃ~!」。ラフ族の男が、テレビで覚えたという日本語を並べます。
「ばかやろ!っていうのは、chaw k'a chaw g'uという意味だよ」と私は説明しました。「ほほう、そういう意味か」というふうに、聞いている人たちが喜びます。
「みしみし(めし、めし)は、ご飯、ご飯を食べるaw, aw ca veという意味だ」「よし、というのは、da-oという意味だよ」と説明し、そのたびに、「ほほう」という反応が返ってきます。
しかし「きてぃりぃ~」というのだけは分かりません。「そんなの日本語じゃないよ」と私はいいましたが、相手は「でも、テレビで日本人が喋っていた」と固執します。……後日になってようやく、別の日本人研究者から聞いて、「きてぃりぃ~」が「先に」という日本語に当たることが分かりました。もっとも、軍人のかけ声で「先に」なんて日本語はありませんが。
そうやっているうちに、大量の鶏肉のお粥ができあがり、碗に盛って、皆に配られました。唐辛子のたくさん入った、大辛のお粥です。お腹も空き、酔っぱらっていた私は、それを2~3杯食べたあと、外に小便に出ました。そして人々のいる台所に戻らず、そのままあてがわれた寝室に戻って、眠ってしまいました。
翌日の3月8日は、中国では「三八婦女節」という女性のための祝日です。ラフ族村である阿永村でも、この日はお祭りだと聞いていました。それを見るために前日のうちに村にやって来たのです。
しかし、中国ラフ族の「三八婦女節」については、また別に報告したいと思います。
今日はもう酔っぱらいました。おやすみなさい。
1. 阿永村でのラフ族調査については、西本陽一『中国雲南ラフ族村の生活誌 アユ村の現在と過去』(金沢大学日中無形文化遺産プロジェクト報告書第9集)2010年7月刊を参照してください。