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キムラン研究と博物館建設プロジェクト


写真1 キムラン歴史研究会のおじいさん達
 きっかけ

 2000年の春先に、キムランという村の古老(Nguyễn Việt Hồng(グエン・ヴェト・ホン)氏主催:写真1)が、ベトナム陶磁器の生産址かもしれないという場所を見つけたので調査して欲しいという連絡が、ハノイの考古学院に入りました。当時ベトナム陶磁器の生産地研究に熱中していた我々と友人の考古学者Bùi Minh Trí(ブイ・ミン・チー)氏は、すぐに現場に向かった次第です。

 キムラン社(社はベトナムの行政単位で、日本の村に相当)は、日本人観光客も多く訪れるバッチャン(旧名:鉢場)の南隣に位置し、人口 6000人を抱える紅河左岸沿いの大きな集落です。そのキムラン社の川岸が紅河の河水により削り取られ、過去の集落遺跡が露頭していたのでした。

 ベトナム陶磁器を研究する場合、陳朝期にはその存在が文献で確認され、現在まで陶磁器生産が続いているバッチャンは、研究の要になる所なのですが、提外地に位置しているため、多量の沖積土が現集落下に堆積しており、窯址や灰原(ものはら)などの過去の生産痕跡を発見するのは容易ではありません。残念ながら17世紀前の考古学資料は、伝世資料以外、皆目検討がついてない状況です。ところが、露頭したキムランの川岸には陶磁器片が散乱し、それらは8−9世紀から17世紀頃までの非常に長い時間の多種類に亘るものでした。当初は、ここを研究すればバッチャンの陶磁器生産の実態がわかる!などと思って研究に向かったのをよく覚えています。


写真2 バイハムゾン2003年発掘区.
 乾期しか調査できない

写真3 出土した陳朝期の高級陶磁器

写真4 お寺の奉仕会のおばあさんが
ボランティアで発掘に参加しました.

写真5 2005年初頭におこなった研究成果報告会.
 発掘調査

 川の営力に逆らうことはできず、露頭遺跡部は2001年から2003年の3度の緊急調査の後、紅河の川底へ消え去りました。発掘(写真2)では11世紀頃から15世紀ころにかけての陶磁器生産の証拠や16-17世紀頃の青銅鋳造遺構など、村の手工業史を復元する上で貴重な物的証拠が明らかとなりました。陶磁器生産を行った窯自体はすでに川に流されていたようですが、灰原品や生産時の工具などを明らかにすることにより、陶磁器生産の具体的証拠が提出できたのです。そのなかには、14世紀の輸出品クラスの高級陶磁器(写真3)も含まれていました。窯址が確認できないにもかかわらず、関連証拠から陶磁器生産地として主張できたのは、丁寧な考古学調査の積み上げに他なりません。

 この発掘調査で思い出深いのは、発掘の現地説明会を催し、村人がたくさん集まって熱心に聞いてくれたこと、そして2次調査の時には、寺の奉仕会のおばあさんたちが、ボランティアで発掘に参加してくれたことです(写真4)。また、2005年には、それまでの研究をまとめて報告会(写真5)を人民委員会で催しましたが、なんと1000人近い人たちが聞きに訪れるという大変な盛況となりました。

 もう一つ、忘れられない想い出があります。発掘調査時にグエン・ヴェト・ホン氏の家をベースにして、大変なお世話をしてもらったので、お返しに幾ばくかのお金を渡して、これをキムラン研究のための足しにして下さいと申し出たところ、即座に"そんなもんは受け取れん。"といわれ、"研究とは自弁でやるもんだ!"とたたみかけられました。まだ、研究者としては駆けだしだったその頃の私たちにとって、これほど効いた薬(言葉)はありませんでした。

 キムランの歴史研究

 当初は、過去の陶磁器生産の歴史にしか興味がなかった我々ですが、村に何度も通ううちに、古老たちの集めた資料や話などから、ここに黎朝期(1407-1789年)の屯田所(国家が設けた屯田村)が置かれ、その分村が行われていること、川岸に過去の堤防址があること、ベトナム風水思想の成立に重要な役割を果たした唐代の節度使・高駢との関係、広西(ベトナムの北隣の中国領)からの移住者、阮石越のことなど、いろいろな歴史事象がわかってきたのです。   しかも、それらと考古資料を重ね合わせることにより、村の歴史をベトナム史のなかで位置づけながら描くことが可能となってきました。これは、キムランの歴史資料を丁寧に探ってきた古老たちとの合同調査や日本のベトナム研究者などとの共同研究関係を築いてきた成果とも言えます。キムランは単に陶磁器生産を行った集落として重要だったのみならず、ベトナムの集落形成史においても重要な位置を占めることがわかってきたのです。

 博物館建設、そして開館へ

 こうした研究成果の蓄積がされるにつれて、キムランの古老の方々から口々に出てきた言葉は、"村の歴史や文化を子孫に伝える展示施設があればいいのだが…。"という願いでした。すでにバックニン省でドゥオンサー窯址博物館を、寄付を募って建設した経験をもつ我々としては、その願いに是非とも応えてみたくなったのです。そこで、我々の運営するNPO法人"東南アジア埋蔵文化財保護基金"をベースに基金活動をはじめました。当初はハノイ在住の方などから基金を募っていたのですが、たまたまキムラン出身の在日本ベトナム公使Nguyễn Minh Hà(グエン・ミン・ハー)氏や関西や名古屋の経済界の方々からのご支援で、日本での基金活動も行うことができ、さらにはスポーツ評論家の江本孟紀氏に広告塔になって頂くという幸運に恵まれ、無事3万ドルに近い基金を集めることができました。そして、2007年11月に建設資金の贈呈式を行うことができました。そして、アジア建築史研究に活躍している大田省一氏に、登り窯や箱形窯をモデルに博物館の設計をして頂き、建設に取りかかろうとしていた矢先に、ベトナムの物価が2倍近くに上昇するというインフレに見舞われ、資金はあっけなく不足となってしまったのです。途方に暮れていたところ、今度はキムラン人民委員会が自力でハノイ市からの予算獲得に頑張ってくれました。こうした政府系予算を獲得する場合は、政府側の意向などを建物に反映しなくてはいけない場合が往々にしてあるのですが、本プロジェクトでは、そのようなこともなく、2010年5月にようやく起工にこぎつけました。これは、海外の援助プロジェクトにありがちな、他人のお金を当てにして堕落してしまうケースとは全く正反対の方向、つまりプロジェクトをきっかけに村自身が積極的に動いて自身のプロジェクトとして成功させたモデル的ケースだと思います。


写真6 博物館遠景
 ただ着工後も、設計と建築の実際が異なるなどの色々な問題も生じました。いちいちそうした問題を、設計のマイナーチェンジを繰り返すことにより解決し、2011年8月に完成した次第です(写真6)。そして展示品や展示説明などを準備に入りました。展示ケースなども我々が設計し、村の腕の良い木工師さんに作ってもらいました。また、展示製作にあたって、ハノイで勉強中の村出身の学生さんを中心にして、実際の製作活動を行うようにしました。つまり、できるだけ村の人材や産業を活用するという方式です。こうして3月20日にようやく開館にこぎつけることができました。


写真7 江本孟紀氏も開館式に参列されました.

写真8 館内風景.明るい室内が特徴です.

写真9 現代の陶磁器作家の作品展示も行ってます.
 式典当日には江本孟紀氏や関西の財界の方々、キムラン研究やプロジェクトにゆかりのある方たちにご出席して頂き、テレビや新聞の取材が5社も訪れるという盛況で終えることができ、村人の夢がようやく叶った日となりました(写真7)。

 建物はこじんまりとしていますが、展示室(写真8)の明るさやまとまりの良さは、他のベトナムの博物館に見られない長所だと秘かな誇りとしているところです。また、考古学的遺物のみならず、村の地理的構造や文化なども紹介し、さらには現在の陶芸作家の作品も展示し、村おこしにも一役買うのが当館の第2の目的です(写真9)。このような村落ベースのNGOプロジェクトは、息の長い取り組みが必要で、そこに投下する体力・知力・時間も相当なものがあり、外見のコストパフォーマンスから考えれば、決して優れたものではありません。しかし、そこの社会や人々に伝えられるもの、後世に伝え残せるもの、そして自身がプロジェクトを通じて学ぶことの大きさを考えたとき、それは何ものにも変えがたい我々の財産となりました。

 ベトナム・ハノイに来る機会があれば、是非訪れてみて下さい。有名な観光地バッチャンからの地図をご参照下さい(図)。

 なお、キムランプロジェクトを含む、われわれのパブリック・アーケオロジーの活動については、以下の日程で詳細に報告する予定です。ご興味のある方は、ご出席下さい。

【第217回 東南アジア考古学会例会】
[日時]:2012年4月5日(木)18:00~20:00
[会場]:早稲田大学戸山キャンパス 31号館201教室
(〒162-8644 新宿区戸山1-24-1/地下鉄東西線・早稲田駅下車)
[発表題目]:「ベトナムにおけるパブリック・アーケオロジーの試み」
[発表者]:西村昌也

図 博物館への案内図



参考文献

西村昌也2011年『ベトナムの考古・古代学』第12章第1節 同成社
西村昌也,西野範子2011年 "ベトナムにおけるパブリック・アーケオロジーの実践:10年間の活動経験からの経験則"『テキスト 文化資源学』、金沢大学国際文化資源学研究センター、29-39頁


 

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