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3.ラフ村での国際婦人デー(三八婦女節)
私は、2008年8月にアユ村に一週間滞在したことがあります。その時に年中行事について聞き取りをしていると、ラフの伝統行事のほかに、中国の国家行事が挙げられることがありました。3月8日の国際婦人デーは、「三八婦女節」という漢語借用で、また「ヤミコ」(「女の正月」または「女の祭」という意味)というラフ語で言及されました。
『日本百科全書』(小学館)によると、国際婦人デーとは「毎年3月8日に世界的に行われる婦人の政治的解放を目ざす統一行動日。1910年8月、第二インターナショナル第8回大会を機会に開かれた第2回国際社会主義婦人会議で、ドイツ代表クララ・ツェトキンらの提案により、婦人参政権を目ざす国際婦人デーの開催が決議され、以後各国で行われた。当初の開催日は各国の実情に応じていたが、1921年6月、第三インターナショナル第3回大会を前に開かれた第2回国際共産主義婦人会議で、ロシア革命(1917)の発端になったペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)の婦人デーを記念し、3月8日に統一することが決定された」ということです。メーデーと同様に、社会主義的な意味をもつこの日を、中国では祝日としています。
もっとも「三八婦女節」は、女性のみの祝日で、この日は女性だけ半日休みとなるらしいです。実際に私はアユ村でラフ族の「三八婦女節」を見たあとで、2012年3月8日夕方に、瀾滄県の中心・勐朗鎮にもどってホテルにチェックインしようとしたところ、レセプションには誰もいませんでした。しばらくして男の警備員がやって来て受付してくれましたが、見慣れない外国パスポートのためか、手続きに時間がかかるのでパスポートを預けて欲しいと言われました。三八婦女節のため、普段いる女性従業員が皆「食事に出かけている」という理由でした。その日、勐朗の町には三八婦女節を祝う紅幕も掲げられていて、中国で三八婦女節が、女性にとって特別な日であることを示していました。
2008年に聞いたアユ村ラフ族の三八婦女節についての説明は次のようなものでした。「昔はなかった祭日だ。この日には女は何もせず、男が代わってすべてやる」(アユ村の書記)。「三八婦女節は1997年から始まった新しい祭だ。この日は村の女全員が、男の村人を連れて森へ行き、食事して、酒を飲んで楽しく過ごす。男は、料理人として連れてゆく。この日は女はすべての仕事から解放されて、男がみんな引き受ける」(アユ村二組の組長夫妻)。
前日の3月7日にアユ村に到着して、書記に翌日の三八婦女節について聞いてみると、「やる。朝早く、朝ご飯を食べたらすぐ○○(地名)に出かけてゆく」ということでした。雲南ラフ族の他村でフィールドワークをしている他の日本人研究者に聞いたところでは、その村では三八婦女節については何も話されておらず、何もしない様子だということでしたが、アユ村はやはり三八婦女節を祝うのです。
また3月7日の夕方に村を散歩しているときに聞いた話は次のようなものです。「明日は三八婦女節だ。遊びに行く。女が遊び、男がご飯を作ってくれる。踊りはしない。朝ご飯を食べたら出かける。あんたも来たらいい」(女性、43歳)。また自称80歳の老女は、「三八婦女節には肉を食べる(ごちそうを食べる)。勐朗から肉を買ってくる。一村みんな行くと思う。行く人も行かない人もいる。私の子供の時は(三八婦女節の行事は)しなかった。今ガイファー(解放/開放)になってからするようになった。昔は婦女節はなかった。やり始めてからたぶん10年あまりだ。(やり始めた時期については)よく知らない。他のラフの村でもやる。ヘパ(漢族)もする。本当は、ラフでなく、ヘパのもの(行事)だと思う」と言いました。
「ガイファー」とは、1949年の「解放」(新中国成立)と1990年代からの「改革開放」の両方を指す、漢語借用のラフ語ですが、この老女が言っているのは、おそらく改革開放の方でしょう。三八婦女節は、ラフ族の伝統行事と一緒に年中行事に挙げられることも多いですが、漢族(「漢族」と言って中国政府を指すことも多いです)由来の新しい行事という認識も同時に存在するようです。
さて、その三八婦女節のラフ村での実際の様子はどんなものだったのでしょうか。
書記は、村の三八婦女節には参加しないと言いました。自称90歳になるという義母を、ダムのある扎糯渡というところへバイクで遊びに連れてゆくということでした。祝われるべき女性の1人である義母にサービスするとはいえ、村の一番のリーダーが三八婦女節の行事に参加しないのは、このときは少し不思議な気がしました。
10時を過ぎてようやく三八婦女節の場所に出発する人が見え始めました。村にはトラクターエンジンの車のほかに、自動車もあります。私も村人と一緒に自動車の荷台に乗ってゆくことになりました。
一緒に荷台に乗り合わせた痩せた中年女性が「私は前にカシェ(村長)をやっていた」と言いました。「私がやっていたときには、ヘパ(漢族)も毎年呼んでいた。今のカシェになってからは呼んでいない」。今のカシェは誰かと聞くと、書記の妻だということが分かりました。ラフ語の「カシェ」は通常「村長」を意味しますが、ここで言う「カシェ」は「婦女主任」つまり婦人部門のリーダーを意味していたのでした。三八婦女節は、女性のための行事であり、婦人部門がその運営に当たっているのでした。とすると、書記が行事に参加しなくても問題はなさそうです。
この痩せた前婦人カシェは、ビニール袋にラフの民族衣装を用意してきていました。私が三八婦女節に参加することを知り、写真を撮ってもらおうともってきたらしいです。タイでもそうですが、中国のラフ族はふだんは民族衣装を着ていません。私のようなお客さんがいなければ、村でおこなわれる三八婦女節に民族衣装をもってゆくことはなかったと思います。
会場に着いた人たちは、準備を始めます。男たちは近くの林に分け入って、柱にする木を切ってきます。柱と言っても細い簡易的なもので直径10~20センチぐらいです。近くの沢から水を引き、簡易水道の準備をする男もいます。料理をするための簡易の炉を準備する男もいます(写真3)。女たちには、細い木の幹の一方を地面に刺し、一方を合わせて、その上に葉の付いた木の枝を載せて、テントを作る者がいます。その影に座って、向日葵の種を食べながら、トランプに興じたりします(写真4)。
子供たちの姿も見えます。昨日から村にいた子もいれば、今頃会場にやって来る者もいます。「今日は学校に行っている子供もみんな帰ってくるんだ」と村人の1人が言いました。今頃会場に来たの子供は、町の学校から直接来たようです(アユ村には小学校までしかなく、中学校以上は近くの郷政府がある町の学校に、寄宿して通っています)。ハニ族も、近くではやり三八婦女節をやっているそうです。三八婦女節は、行政の行事で、学校も休みになるようです。
会場の脇には川が流れていました。ラフの男が川を指して、「ほら、ああいうふうに川をせき止めて、田んぼに水を入れてるんだ」と教えてくれました(写真5)。川の向こうの田んぼでは、夫婦らしい男女が働いています(写真6)。聞くと、ラフ人で、隣村の「ムヌ村」の人たちということでした(行政的にいえばムヌ村は村民小組の一組で、アユ村は二組と三組から構成されています)。
「ムヌ村はこないだ選挙で新しいカシェ(村長)を選んだけど、そのカシェがものを知らない(ma shi pui)ので、(三八婦女節を)やらないのだ。ムヌ村はいつもやらない」と、その男は続けました。先ほどからいろんな人が口にした、「今日はどの村もやる」というのは正確でないようです。
11時を過ぎると、先ほどの元婦女主任の女が私のところにやってきました。写真を撮ってくれと言うのです。「いいよ」と答えると、用意したラフ族の民族衣装を着始めました(着ていた上着を脱いで、ラフ族の民族衣装を着けるので、みんなの前でもできます)。
私は2008年に一週間滞在したときにアユ村の写真を、翌年ひとにアユ村に届けてもらいました。2010年にアユ村を訪れると、村人たちは写真をとても喜んでくれていました。その時に撮った写真も、あとで書記宛にまとめて郵便で送りましたが、今回再訪してみるとちゃんと届いていて、「受け取ったよ」と言ってくれました。写真を喜んでくれる姿をみると、忘れがちなことですが、あとで現像してちゃんと届けなければと思い直します。
民族衣装をもってきている人は3人でした。初めに元婦女主任の写真を何枚か撮ると、今度は衣装を借りた別の人の写真を撮りました(写真7)。そうやって写真屋の役割を果たしました。
12時半になりました。男たちは主にごちそうの準備、女たちは主にトランプ遊びなどで楽しんでいます。その間に、トラクターエンジンの車の荷台に乗って、別の一陣が到着して、人が増えました。豚は、朝に村でつぶしたものと、町から買ってきた豚肉とがあったようです。簡易の炉で肉が焼けると、料理しながらそれを回して食べます。お酒も飲みながらの料理です(写真8)。子供たちは裸になって、川で水遊びしていました。買い出しに行っていた人たちも帰って来ていて、ビールとマンゴ・ジュースの箱もならんでいました。 午後1時半をすぎて、ようやく食事が始まりました。それまでの肉のつまみ食いと違う、本格的な食事です。会場のあちこちに、ご飯とおかずの入った鍋などが並べられ、箸が配られました。お客である私は、写真を撮っていたのですが、あちこちから「こっち来て食べろ」と呼ばれました(写真9、10)。
2時頃には私はだいたいごちそうを食べ終わりました。ラフの人たちは、食べたり、煙草を吸ったり、お酒を飲んだり、トランプしたり、お喋りしたりと、ゆっくりしています。ごちそうの共食が終わると、なんだかもう見所は終わってしまったような気がして、会場をぶらぶら歩きながら、正直私は退屈していました。しかし、儀礼あるいはイベントを見に来た私と違って、ふだんきつい仕事を毎日しているラフの人たちにとっては、のんびりして楽しむ機会なのでしょう。帰りを急ぐ様子はありません。
私は歩くのをやめて、山の斜面に寄りかかり、何人かの男たちとお喋りをしました。また、テレビドラマで知った、旧日本軍の暴虐について話す者がいます。私は「中国もむかし日本を攻めようとしたことがあったんだよ(元寇のこと)」とか「ラフも昔ヘパ(漢族)と戦争したんだよ」と言ってみましたが、まるで想像できないようで、清朝に対するラフ族の戦いについても、「そんなことはないだろう」と言われました。
お喋りが一区切りついたあと、段ボールを下敷きにして、山の斜面にもたれて私は眠ってしまいました。向こう側で、私と同じようにして、カシェ(組長)が昼寝をしているのが、寝入る前に見えました。
目を覚ますと、先ほど眠る前にお喋りしていた男のひとりが戻ってきました。私が寝ている間はそっとしておいて、目を覚ましたのを見て、また相手をしに来てくれたのでしょう。酒飲みですが、いい人です。
4時頃になって、村に戻ることができそうになりました。バイクをもっている者の中には、すでに村に戻ったり、別のところに遊びに行ったりで、会場を離れた者たちもいたようです。しかし、私たちは車の荷台に乗って戻らなければなりません。帰る頃になったと思った人びとが、会場の田んぼを上がって、省道を歩きます。車の前に来ましたが、運転手はまだ遊んでいるのか、車は動きません。私たちは道端に座り込んで待ちました。
一緒にいた「シャトゥパ」(焼香する者)と呼ばれる祭司に、三八婦女節(の宴会)には、モーパ(呪医)は来ないのかと聞きました。モーパをしている男の姿が見えなかったからです。しかしシャトゥパは私の質問をやや別の意味に取ったらしく、「彼は来ない。(三八婦女節では)呪文を唱えないから(オコマヨヴェ)」と答えました。
三八婦女節は、言ってみれば、ピクニック+宴会+トランプ+酒です。女性が楽しみ、男が奉仕する側に回るという構図が見られますが、宗教色や神聖さはないイベントです。
後日、別のラフ族村で調査をしていた研究者に聞いてみましたが、その村(自然村)ではまったく三八婦女節をしなかったそうです。ところがその上方の「村公所」のある村(村公所とは、行政村の政府オフィスの集まった場所です)を通りかかったら、「これから川へごちそうを食べに行くから、遊びに行こう」と誘われたそうです。どうやら小さな自然村の中には三八婦女節をやらないところも多いようですが、村公所があるような行政村の中心村ではやるところが多いようです。
三八婦女節は、中国全体で祝われる祝日で、ラフ族の伝統行事でもなんでもありません。しかし、見た限りでは、川辺に行って、ごちそうを食べ、トランプし、お酒を飲んで楽しむという当地の少数民族なりの祝い方があるようです。国の行事が、少数民族の村で実際にどういうふうに祝われているかを知ることは、大切な研究テーマのひとつだと思います。
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