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4.西双版納・南朗河村を再訪して

 昆明から景洪(西双版納)へ飛行機で飛び、バスでそこから約一時間の勐海(モンハイ)という町に移動しました。着いたのは夕方で、その日は勐海に泊まり、翌日そこから南朗河(ナンランハー)というラフ族村を訪ねました。

 南朗河へは、勐海からバスか「農村客運」というミニバスに一時間ほど乗って、勐阿鎮に着いた後、そこからさらに4キロほど行ったところにあります。勐阿から南朗河には公共交通機関はなく、勐阿市場付近にたむろするバイクの輪タクかバイクタクシーの後ろに乗ってゆくことになります。

 私は、雲南での調査を始めた2006年に、一度この村を訪れています。勐海のホテルを拠点にして、地図で勐阿が「拉祜族郷」であることを知り、まず勐阿に行き、周辺にラフ村がないかと町にいた人に聞いて、南朗河村を知りました。

 勐阿の町からバイクの後ろ座席に乗って南朗河村に着きました。降ろされたところは、雑貨店の前です。不意の侵入者に村の人びとは、知らぬ顔をしていましたが、ラフ語で話しかけると、「あら、ラフ語を知ってるじゃないか」と話し相手になってくれました。当時私は漢語はほとんどできませんでした。

 その後、村のことやラフ族の伝統をよく知っている人というので、退職した学校の先生とそのお兄さんのところに連れて行ってもらいました。そして村のことを聞き、村のずっと上にある「拉祜廟」と書かれた祭祀場を見せてもらった覚えがあります。


写真1 再訪した南朗河村。村道がよくなっている。
 さて朝、勐海でぐずぐずしていたので、南朗河村に着いたときのは午後1時半でした(写真1)。ひとまず、前回お世話になった元教師とその兄を訪ねようと、村の人に居場所を聞きました。元教師の娘(この人も学校の先生)のところに連れて行かれました。清明節のため学校が休みで、元教師の娘はマージャンに興じているところでした。

 聞くと、父の元教師は病気で景洪にいるとのこと、その兄は村の道をずっと行ったところにいるということでしたので、歩いて行ってみることにしました。しかし元教師の兄の家は、もっと別のところにあったはずです。後で分かったことには、この人も身体の調子が悪く、村の下方にある別の家(おそらく子供の家)に暮らしているとのことでした。

 2006年に私が訪ねたとき、元教師は「55歳だ」と言い、その兄もそれほど離れた都市ではなかったはずです。6年ぶりとは言え、ふたりとも身体の調子が思わしくない様子で、ちょっとショックを受けました。


写真2 南朗河村。村の奥は2006時と変わらない。
 村の中を見ながら、ゆっくりと歩いて行きました。行政村の中心のため、「村公所」があり、「衛生所」(保健センター)があり、「市場」(小さなものですが)があり、「小学」(小学校)があります。道々いろんな人に何度も、元教師の兄の家を訪ねていきました。迷ってしまわないようにということもありますが、こうしてできるだけ多くの人に話しかけて、不意の訪問者に怪訝な気持ちがあれば、解いておきたいという意味もあります。しかし尋ねてみると、違う道を行っていたということが2度ほどありましたので、まめに聞いておいてよかったです(写真2)。

 午後2時過ぎにある家に入って、そこにいた男に道を尋ねると、元教師の兄のいる家に行くには、行きすぎていたことが分かりました。しかしこの男(李某さん、46歳)は、私が6年前に元教師とその兄を訪ねたことを知っていました。それほど忙しくないらしく、いろいろ話をしてくれるので、ひとしきり外で話した後、ちょっと座ってゆけと誘われるまま、彼の家におじゃまして話をしました。結局この日は、元教師の兄(聞くと、身体の調子が悪くあまり動けずに家にいるらしいです)を尋ねることなく、李さんに話を聞き、村の祭祀場を見せてもらいました。


写真3 盛装した南朗河村の人びと。
      民族衣装も瀾滄で見たものと違う。
 李さんと話していると、ラフ語が瀾滄県のラフ語と少し違っていることに気づきました。私はむかしタイにいた時にラフ語を学んだので、タイ国ラフ族式のラフ語を話します。南朗河のラフ語は、瀾滄よりもタイ式のラフ語に近いところがいくつかありました。また写真を見せてもらうと、民族衣装も瀾滄県のラフ族のものと違っています(写真3)。もちろん言葉も衣装も、瀾滄県の中でも多様ですが、少なくとも私がこれまで見た瀾滄県北部のラフ族のものと異なっていました。

 また、南朗河村の祭祀場のあり方は、これまで見聞きした瀾滄県のラフ村のものとだいぶ違っていました。それを中心にご紹介してゆきましょう。

 李さんと話していて最初に分かったのは、かつて訪ねた村のずっと上方にある「拉祜廟」(ラフ語では「La Hu tan kuiラフの供養所」などと呼びます)の他に、それより下方に「aw neh eh」(「子供」の意味)が作られたということでした。どちらも村の祭祀場ですが、「拉祜廟」が大きなもので、新しく作られたものはその「子供」だそうです。

 また「サーシュ」(山神)のあり方も違っていました。これまで私が訪れたラフ村では、村の上方にある祭祀場(南朗河村では「拉祜廟」とその「子供」に当たる)を、「焼香場」(sha tu kui)とか「サーシュ」(sha sheu、漢語「山神」からの借用語)と呼んでいましたが、この村では「サーシュ」は、村の下方にある墓地(chaw tu kui)にあるというのです。

 祭祀のやり方も「蝋燭を点し、線香を点す」(pe tu sha tu ve)と、李さんははっきり言いました。瀾滄県でこれまで見たラフ族の祭祀法は、「線香を点す、蝋燭は結婚式の時しか点さない」と言うように、線香を点すことが中心のところが大部分でしたが、李さんの話を聞く限り、南朗河村では蝋燭と線香に同じぐらいの重点が置かれているようなのです。  李さんの家は村外れの低いところにあるのですが、それより下方にある墓地に、沢を越えて連れて行ってもらうことにしました。沢をこえたところは、田畑にされていない荒れ地のような場所です。

 そこに行く途中で李さんは「日本人は火葬するか」と聞きました。「する」と私が答えると、彼は「ここでは火葬しない。病気になって、モーパ(呪医)がそうすべきと判断したら、火葬することもあるけど」と言いました。歩きながらの話ではっきり聞き取れなかったのですが、普通は土葬だが、悪い死に方をした場合には、火葬することもあるということらしかったです。


写真4 漢族式のお墓

写真5 土盛り式のお墓
 墓地に着いてまず目に入ったのは、セメントとタイルで作られたかまぼこ形の漢人式お墓でした(写真4)。そしてその向こうには、土を盛ったかたちのお墓が並んでいました(写真5)。李さんが説明してくれます。「ヘパ式(漢族式)の墓は(故人の)子供が作ってあげたもの。子供にお金があったら作る(なければ土盛り式の墓のままだ)。こっちの墓は(故人の)子供にお金がなく、親戚が作ってあげたものだ」。人が死んだらまず土盛りの墓に土葬し、後日お金があったら立派なお墓に作りかえるということなのでしょう。

 お墓には、お供え物や紙の吹き流しの飾りの跡が残っています。漢族の清明節(掃墓)は、だいたいは農暦3月(新暦4月ごろ)で、2012年は4月4日ですが、ラフの「清明節」は、それより一ヶ月以上前におこなわれます。各家異なった日におこないますが、だいたいの期間は決まっています。今年の場合中国のラフ族は、農暦2月17日=新暦3月8日の満月日には、どの家も掃墓を終えていました。

 ラフの掃墓祭は、li peh gu veと言いますが、中国ではui eh gu veと言われることの方が多いようです。「ui eh」とは漢語「二月er yue」のラフ語訛りです。2008年に私はアユ村で見たこともない年中行事について聞き取りをしていましたが、「二月にはli peh gu veする。Ui eh gu veする」と言われ、漢族の清明節に相当するものだと分かったので、「二月でなく三月でないのか」と何度も尋ねたことがあります。今回雲南に来て、ラフ族と漢族の同様の祭は、おこなわれる時期が違っていることを知りました。

 農暦二月には、ラフの人びとは家ごとに自分の祖先の墓地にやって来て、酒、飯、茶、煙草を供え、蝋燭と線香を点すのだそうです。そして墓地の前でみんなでごちそうを食べます。モーパ(呪医)には頼らず、特別な言葉も唱えません。家々が別々の日におこなうので、隣人や友人の家の宴に参加することもあるそうです。


写真6 墓地にあるサーシュ
 さて「サーシュ」(山神)はどこかと李さんに聞くと、指してくれました。見ると、木の根元に長方形の石が置かれて、祭祀場になっています(写真6)。石にはそこで屠られたであろう鶏の血が塗られた跡があり、周りには点された蝋燭と線香が残っています。「サーシュには蝋燭を点し線香を点す。サーシュの周りでは、薪を切ってはならない(畑も拓いてはならない)」と李さんは説明してくれました。

 南朗河村の「サーシュ」(山神)は、これまで見聞きしたものと違っていました。これまで「サーシュ」と言えば、村を見下ろすような上の方に、祠を作り、ネ(精霊)を祀ったものでした。ですから「サーシュ」はふつう、「村の上方の祠」(hk'a u pa)とも言われ、「村の上方の山神」(hk'a u sha sheu)という呼び方もします。単に、李さんがよく知らずに、墓地にある祭祀場を「サーシュ」と間違えて呼んでいた可能性も否定できません。ふつう「サーシュ」と言えば、この後に見る村の上方にある大小の祭祀場を指すはずです。村の上方の祭祀場には、生理のある女性は行ってはいけませんが、李さんはここの「サーシュ」には女も来てもいいと言いました。

 さらに驚いたことに、南朗河村には「サーシュ」が数多くあることが、このあと分かりました。

 李さんが言います。「こっちの墓はta ti pa、漢語で『祖公』のものだ(実際はta ti paは村の創始者という意味)。これは(かつての)カシェマ(村長の妻)の墓だ。ナブマという名前だった。ここに初めにカシェマを埋葬して、その後なくなった他の人びとは、ナブマの墓の下方に埋葬するのだ」。

 「こっちのカシェ(かつての村長)の墓は新しい。死んでまだ間もないからだ。ナブ(ナブマのこと)が亡くなった後で、妻を1~2人娶った。夫婦が生涯1人ずつだけだと、死んだ後で一緒に埋葬する。そうでなければ、夫と妻は別々に埋葬する。ラフはこうするのだ」。カシェの墓標を読むと、1914年に生まれ2004年に亡くなったことが分かりました。カシェは妻を何人か娶ったけれど、子供はひとりだけで、今も村内に住んでいるということでした。


写真7 サーシュ。
点蝋焼香され、鶏血が塗られた跡が見える。

写真8 故カシェ家のサーシュ

写真9 故カシェのサーシュ。祭祀の跡がある。

写真10 村のずっと上方に立つ拉-廟

写真11 「子供」と呼ばれる村の上方の祭祀場

写真12 コンクリートブロックの祠の下方に
    置かれた焼香場所
 そして李さんは木の根元を指して、「これが彼らのサーシュだ」と言いました。見るとさっきのサーシュと同じように、木の根元に長方形の石が置かれ、同様に祭祀の跡があります(写真7)。こちらはつぶした鶏の羽根も残っています(写真8)。

 李さんによれば、サーシュは各家で自分のものを作ることができるのだそうです。自分の家のサーシュを作ることができなければ、他家と共有します。だから、サーシュはたくさんあるのです。また埋葬地もここだけでなく、あちこちにあるそうです。

 埋葬は、故人が希望していた場所に埋葬し、サーシュをそこに作るのだそうです。だからサーシュは多くなります。各人のサーシュを作ることもできるので、多くなるはずです。

 墓地へのお参りは農暦二月におこないますが、お金がある者は毎年やるが、お金がない者は「三年連続しておこない、三年連続して休む」(sheh hk'aw gu leh sheh hk'aw the ve)だそうです。「おれなんかそうだ」と李さんは言いました。

 また農暦二月のお参りの他にも、身体の調子がどうしても思わしくないと、お墓を直しに来ることもあるそうです(aw to ma cheh sha k'o, gu ve ka caw ve)。漢人と同様に中国のラフ人も、不幸や不調が連続する場合に、お墓が壊れていたり、きちんと世話されていないことに対して祖先が怒っているためだと考えるのでしょうか。

 また人が死ぬと、昔はすぐれたモーパ(呪医)がいて、長い言葉(漢語借用で「歌唱」geu chaと李さんは言いました)を唱えてくれたけど、今はそれをできるモーパがいないので、人が死んでも「歌唱」しないそうです。昔は、言葉を唱えて「イージマージまで連れて行ってくれる」すぐれたモーパがいたそうですが。

 中国のラフ族のモーパは葬儀の際に唱える言葉で、実際の地名を並べながら、死者を少しずつ「死の国」へ連れて行くと言われます。「イージマージ」(i ji ma ji)とは、別地域のラフ族がpeu ji na jiと言う「北京南京」のことでしょうか。

 その後、李さんの家に戻り、バイクを出して、村のずっと上方にある「拉祜廟」と村の少し上方にあるその「子供」の祭祀場を見に行きました。

 「拉祜廟」は茶畑の中にあります。しかしこの祭祀場を何と呼ぶべきか、あまり決まった呼び方はないようです。実際に「拉祜廟」に登る道で李さんは、「ここの住民は、ピチョ(傣族)を真似て、hpa yeh(仏教寺院)と呼ぶんだ」と言いました。「それなら本当は何と呼ぶんだい」と私が尋ねると、「la teh kuiだ」と彼は答えましたが、これは「虎を置いている場所」の意味です。あとで見るように「拉祜廟」に立っているのは、虎でなく獅子ですが、ラフ語はふたつを区別しません。一方、私を連れていた李さんは、道で会う人たちに、「瓢箪(アモコ)を見に行くんだ」とか「獅子を見に行くんだ」という言い方で説明していました。

 「拉祜廟」はセメントでできた立派な祭祀場です。中央に焼香壺があり、1999年××月(解読不能)二十六日に作られたと彫られています。焼香壺の両側には、セメントでできた瓢箪が一対立っていて、向かって左に「那母」(ナム、馬子に当たるラフ語の女性名)が、右に「扎母」(ジャム、馬男に当たるラフ語の男性名)という文字が刻まれています。下段の両側には一対の獅子が立っています(写真10)。

 「拉祜廟」のあちこちには、供え物、蝋燭と線香、鶏の血を塗った跡が残っています。「拉祜廟」でも、蝋燭と線香を点して祭祀を行ないます。モーパ(呪医)が点します。正月には、ここにご飯、茶、酒、野菜、白米、茶葉を供えるのだそうです。獅子の口には、紅玉が入っていますが、向かって左側の紅玉はなくなっていました。

 次に「子供」aw yeh nehと呼ばれる新しい祭祀場を見に行きました(写真11)。「子供」の方は、村のすぐ上方にあります。コンクリートブロックの壁にトタンの屋根が付いた祠です。中の床の真ん中には焼香場所があり、その後ろにコンクリートの台が作られています。台の正面には、蝋燭を点してくっつけた跡が残っていました。台の上には、酒杯(tzuh hkeh)と茶杯(la hkeh)が置かれ、台の向かって右側には水杯(i ka hkeh)と呼ばれる竹筒が立てかけてありました。祭祀場の下方で線香を点し、上方で蝋燭を点すのはよく見る構図です。

 この祠の向かって右側には、簡単な囲炉裏のようなものが残っていました。正月にそこで鶏をつぶした跡だそうです。正月には村人たちがここに来て、鶏をつぶして、祭壇にご飯を供えて、「頭を垂れる」(o k'o pui ve、礼拝する)そうですが、食事は家に戻って各家でするそうです。

 コンクリートブロックの祠の少し下方には、セメントの焼香場所が置かれていました(写真12)。李さんは、ちょっと自信ない様子でしたが、こちらでは蝋燭はたぶん点さないと言いました。正月の祭祀の時には、モーパ[1] が最初に下方で線香を点し、その後で上方の祠で祭祀をするのだそうです。上方の祠で祭祀が終わると、人びとの手首に「糸」a ca hkehを結んで、健康であるようにと祝福します。

 これまで訪れた中国のラフ族村では、主な年中行事は農暦一月(正月祭)、二月(掃墓)、六月(火把節)、七月(祖先祭祀)、八月(祖先祭祀)におこなわれていました。このうち農暦一月の正月祭の時には、村人は村の上方のふたつの祭祀場(「拉祜廟」と「子供」)に参ります。二月にはそれぞれの家の墓参りをするとともに、そこに作られた「サーシュ」(山神)に供物を捧げます。他月の行事の際には、「拉祜廟」にも「子供」にも「サーシュ」にも参ることはないそうです。

 村民が病気の時には(ma cheh sha hta)、「子供」に供物を捧げることがあると李さんは言います。しかし、上方の「拉祜廟」には捧げないそうです。

 先ほど書いたとおり、「拉祜廟」は茶畑の真ん中に立っていますが、それは2006年に来たときも同様で、その時にも私は違和感を感じました。というのも、通常村の上方に立ち、村の安寧と繁栄をつかさどる祭祀場(「焼香場」sha tu kui、「村の上方の祠」hk'a u pa、「山神」sha sheuなどと呼ばれます)の周囲では、畑を拓いたり薪を切ったりすることはタブーで、それを破ると「虎に噛まれる」とか「病気になる」と言われているのが普通だったからです。「拉祜廟」と違い、「子供」の周囲は藪で、畑も拓かれておらず、利用されないままになっていて、タブーが守られています。

 李さんは、「こないだヘパ(漢族、ここではおそらく政府役人のこと)が拉祜廟に家を建ててやると言ってきた」と言いました。丸裸になっている「拉祜廟」を覆う立派な建物を建てる計画があるという意味なのでしょう。また、こちらの祭祀場建設には「ヘパ」がお金をくれた(政府が援助してくれた)が、下の「子供」の方にはくれなかった、とか、大きな祭祀場(「拉祜廟」のこと)は、「村公所」の者たち(村の幹部たち)が作ったが、「子供」の方は村全員で作った、とも李さんは言いました。

 「サーシュ」には男でも女でも誰でも行ってよいが、「拉祜廟」と「子供」には生理のある女性は言ってはならないというタブーでは、「拉祜廟」と「子供」は同じです。また「拉祜廟」も「子供」もともに、村全体をつかさどるものだと李さんは言いました。一方、先述の通り、村人が病気の時には、「子供」の祭祀場に供物を捧げに行って回復を願うことがあるが、「拉祜廟」には行かないそうです。

 「拉祜廟」は碑文によると1999年に建てられ、「子供」の方は「今年」(と言っても春節の前にはできていた)建てられたものだそうです。ラフ族の正月(漢族の春節と同時期)には、両方の祭祀場に村人たちが一緒に詣でますが、それぞれで言葉を唱えるモーパは別々の人だそうです。

 李さんの口からはっきりとした確認の言葉を聞くことはできませんでしたが、これらを考え合わせると、「拉祜廟」の方は、郷政府の政策によって建てられた公的な文化シンボル的なもので、「子供」の方は住民自身が建て、住民の生活により近いもののように思われます。


写真13 李さんのお父さんの家にあった三線。

写真14 李さんのお父さん宅の簡素な祭祀場
 「子供」祭祀場を降りたところに、李さんのお父さんの家がありました。お父さんは「イーシーパ」(i shi pa、歌舞者)で、かつては政府政策の「宣伝」(日本語で言えば「広報」が近いかも知れません)のために働いたそうです。家にある「三線」と「二胡」を見せてもらいました(写真13)。

 最後に、家の祭祀場所も見せてもらいました(写真14)。母屋を入った居間の奥に作られています。地面に直接線香を挿して点し、その上の木の部分に点した蝋燭をくっつけた跡が見えました。祭壇もなく簡素な祭祀場所です。

 帰りのバスの時間が迫っていたので、次回来たときにはもっとゆっくりしていくからと言って、南朗河村を後にしました。李さんがバイクで勐阿まで送ってくれ、そこから「農村客運」に乗って勐海に戻ると7時を過ぎていました。

 そう言えば李さんは、南朗河と瀾滄のラフは違うという意味のことを話すことがありました。ラフ族の民族衣装は「ここにはなく」瀾滄でみんな買ったものだと言いました。瀾滄ではラフ族の民族行事がたくさんあるが、ここは西双版納の中にあるのでないと言いました。瀾滄県はラフ族の自治県で、西双版納は傣族の自治州です。西双版納では傣族が中心になっているので、瀾滄県ほどラフ族に目を向けられないということなのでしょうか。

 明日は、勐海からその瀾滄県に向けて出発します。







1. この村では、モーパ(maw pa)という言い方も通用しますが、ンゲーパ(ngeh pa)という言い方の方がよく使われるようでした。ンゲー(ngeh)は、他では「ネ」neと呼ばれるもので、精霊やおばけ一般を意味します。



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