ニュース
- ホーム
- コラム一覧
- 5.傣族のお寺を訪問して
5.傣族のお寺を訪問して
観音像のようです。
9日、午前の会議で発表し、昼食会を終えた後、友人のタイ人の研究者と一緒に、村へ遊びに行くことにしました。目指すは老達保村という、ラフの音楽が盛んな村です。
ところが老達保村の手前まで行ったら、その先の道路が工事中ということで、車は通れませんでした。引き返して、別の村に行くことにしました。
車の中でどこへ行こうかと話し合いましたが、もう時計は4時半近くになっています。一番近くで思い当たる勐賓村に行ってみることにしました。
勐賓村は大きな村で、ラフ族、ハニ族、傣族などが小さな村に分れて住んでいます。瀾滄県の中心である勐朗鎮からも近いためか、セメントなどの工場の多い村です。その中の傣族村に行ってみることにしました。
記憶を頼りに車を走らせます。勐賓は、瀾滄(勐朗)から孟連に行く省道沿いにあり、これまで何度も通ったことはありますが、訪ねたことはありません。工場が広がる一帯を過ぎて、田んぼが広がるところに来ました。田んぼの向こうに傣族のものらしき集落が見えたので、省道から小道を入って行きました。近づくと寺らしきものが見えました。
果たしてそこはお寺でした。
中国の傣族は、タイのタイ族、北タイ族、ミャンマーのシャン族などと同系統の、いわば親戚民族です。一方、中国で傣族と呼ばれる人びとも、西双版納を中心に居住する傣族と徳宏タイ族ジンポー族自治州を中心とした傣族に分れます。西双版納傣族は北タイのタイ・ルーとつながりがあり、徳宏傣族はビルマのシャン族や北タイのタイ・ヤイとつながりのあるグループです。後で分かったように、訪ねたお寺のある集落の人びとは、徳宏傣族に近い人びとでした。
着いた先は、勐賓村(行政村)の那養村民小組(自然村)でした。「那養」という村名は、傣語の漢字表記で、田んぼの塊を意味するもののようです。那養寺は、割と古いたたずまいを見せたお寺でした(写真1)。
お寺に入ると、お坊さんがバイクにまたがって遊んでいるところでした。後ろの僧坊からは、傣語ポップスの歌が大音量で聞こえてきます。近くには、傣族の長太鼓を直している、20代と見える若者たちがいて、お坊さんと親しい友人のようでした(写真2)。
私はむかしタイに長く住んでいたので、上座仏教(小乗仏教)のお坊さんは見慣れています。しかし中国に来てから、こちらの傣族のお坊さんを初めて見たときには、ちょっとびっくりしました。タイの上座仏教は戒律が厳しく、お坊さんが自分でバイクを運転したり、音楽や娯楽にふけったりするのはタブーだったからです。同じ上座仏教といっても、中国にいる傣族のお坊さんには、そういったタブーはないのか、バイクの運転も音楽も普通のことのようです。
バイクにまたがっていたお坊さんは、ただ暇にまかせてバイクで遊んでいただけのようで、どこかへ出かける様子ではありません。私とタイの友人は、僧坊前の長いすに座ってお坊さんに話を聞き始めました(写真3)。
私は寺を見てみることにしました(写真4)。
お寺の裏の僧坊から、表の方へ回って行きます。お寺の壁には、お布施をした人の名前と額が、漢字と傣文字で書いてあります。他にも、お寺を建立したときのことが、やはり漢字と傣文字で書いてあります(写真5)。
傣文字と言っても、中国の傣族の文字は、西双版納を中心としたタイ・ルーの文字と徳宏を中心としたタイ・ヤイの文字があり、西双版納のものは丸っぽく、徳宏のものはやや細長めです。ところが那養寺で書かれていたのはそのどちらでもなく、ランナー(チェンマイ)文字、それも古いランナー文字でした。こういったことはひとりで回っていてもなかなか分かりません。今回は北タイ出身のタイ人が一緒だったから分かったことです。
お寺をざっと見回したところ、本堂の他には、講堂(サーラー)や経典倉のようなものはありませんでした。しかし本堂の前には「トゥン・カム」と呼ばれる傣族のお寺によくある吹き流しがありました(写真6)。その横に、精霊の祠のようなものがありましたが、お坊さんに聞いてみると「神様の祠」(ホー・テーワラー)とのことでした(写真7)。
それから釈迦がその下で悟りを開いたという菩提樹があり、下方には祠がありました(写真8)。またその下で釈迦が生まれた、タイ人の友人によれば、釈迦が生まれたときに母である摩耶夫人がその枝を掴んでいたという無憂樹があり、同様に下方に祠が設けられていました(写真9)。どちらの木も信仰の対象となっているようです。
本堂を入ると、正面に金色の仏像が三体ならんでいました(写真10)。派手な色の仏像は、東南アジアと同じです。手前右側には、お坊さんが中に入って経を読む輿がありました。本堂の壁には、民衆の手になるものらしい仏画が描かれています(写真11)。傣族のお寺ではよく見かけるものですが、本堂の中にはたくさんの吹き流しが掛けられていました(写真12)。
私は正面の三体の仏像の前にたつ、男女一対の像に興味を引かれました。というのも、3月の終りに5日間、日本のある先生と一緒に、徳宏傣族のお寺を見て回った時にも見たものだったからです。男女一対のこの像は、訪れた徳宏のほとんど全てのお寺にありました。しかし、タイのお寺では、少なくとも本堂にはこのような一対の像はおかれていません。
徳宏のお寺を訪ねたときには、多くが無住寺だったためにお坊さんに尋ねることができず、俗人信徒にそれぞれの聞くと、いろいろ違った答えが返ってきました。那養寺の住職に聞くと、男の方が「シーグトラマット」で、女の方は「ナーントラーニー」というはっきりした答えが返ってきました。
徳宏で見たお寺では、一寺をのぞいて、男の像が向かって右側に立ち、女の像が左側に立っていましたが、那養寺では逆でした。
男の像は、人間たちの善行と悪行をすべて記録する役割を持つ存在で、死後その記録にもとづいて裁きがおこなわれます。「本当は片手に紙をもち、もう片手にペンをもっているはずだが、ここの村人はものを知らないから、勝手にこういうふうに作ったのです」と住職が言いました。たしかに胸の前で両手を合わせた、タイ式のお辞儀をした格好をしていますが、徳宏で見たのはすべて紙とペンをもつ姿でした。私の経験では、タイのお寺ではこのような像は見たことがありませんが、見落としていただけかも知れません(写真13)。
女の像は、ナーントラーニーと呼ばれる地母神像で、一般に長い髪を手で掴んでいる姿で描かれますが、那養寺のものも例外ではありませんでした。タイでは、お坊さんが経を詠む間にひとつの容器から別の容器に水を垂らして移すことによって、個人が積徳をして得た功徳を亡くなった人に送ることができますが、その際に媒介になってくれるのがナーントラーニーだと言われることが多いです。那養寺のナーントラーニーも同様か、残念ながら住職に聞いて確認するのを忘れました(写真14)。タイのお寺では、ナーントラーニーが境内の中に置かれていることはありますが、本堂の中に置かれているのは見たことがありません。
私は傣語は分かりませんが、お坊さんはタイ語と北タイ語ができたので、話をすることができました。お坊さんは、昔タイのチェンライ県のお寺に5ヶ月いたことがあるそうです。那養寺に来て「二安居 [1]」だそうです。出身はビルマのモンリアムというところで、タイ・ビルマ国境の町タチレクの少し北にあります。現在28歳で、那養寺に来たのは、この村に親戚がいた関係もあり、住職として呼ばれたからだそうです。
私はこれまでも中国の傣族のお寺を回ったことがありますが、同じような話をよく聞きました。かつて文革の時代に宗教は否定され、傣族のお寺などは破壊され、お坊さんは還俗させられたりしました。その後、改革開放によって民族伝統の復興が始まり、傣族のお寺も再建されたり、儀礼が復興したりしましたが、肝心のお坊さんがいません。それでビルマからお坊さんを呼んで、お寺を再建したり、住職になってもらったりしています。もっともこれはお坊さんのいるお寺の話で、回ってみると、お寺はあるがお坊さんはいない無住寺も多いです。
那養寺の若いお坊さんは、もう少しここに留まるつもりだが、その後は分からないと言いました。ここにはお坊さんはひとりなので、お勤めをするにも何をするにもひとりで、少し寂しいのだそうです。この「寂しい」というのは感情的なものでなく、修行をともにしたりする同僚僧や指導してくれる師匠僧がいないことが残念だと言っているようでした。できれば、修行の厳しい「森の僧」となり、もっと瞑想に励みたいと、お坊さんは言いました。
正直、私にはお坊さんが本当にもっと修行に励みたいと思っているのか分かりません。先にも書いたとおり、戒律の厳しいタイのお坊さんを見た後で、中国にいる傣族のお坊さんを見ると、俗っぽいと感じてしまいます。お坊さんでいるのも、それが当面の選択肢としてあったからで、他にいい機会があれば、還俗してそちらを取るのではとつい思ってしまいます。しかし、それはそう見えるからで、本当はこの若いお坊さんももっと修行に励みたいと思っていたのでしょう。
ところでこのお坊さんは、中国の身分証(国籍)をもっていないそうです。身分証は中国に何年いても取れないそうで、今は一年ごとに滞在許可を更新しているということです。お坊さんは、寺を頼って、タイやビルマや中国などを自由に動いているという話を聞くことがありますが、それほど自由ではないようです。
お寺をひとしきり見せてもらった後で、さっき長太鼓を直していた若者の家に招かれました。お寺を出るときに、ふと門柱に目をやると、マレーシア在住の張某および家族の布施によって門が建てられたと記されていました。「マレーシア???」と、私は思いました。
若者の家のソファーに座った後で、一緒に来た住職に聞くと、「マレーシアの筈はない、あれはモンリアムの人が建てたものだ」という答えでした。若者のお父さんも含めて、そこにいた人たちに確かめると、モンリアムの女性がマレーシア人(おそらく華人)と結婚して、その家族がお布施をして建てたものだということがわかりました。
若者のお父さんには、4人の子供がいて、3人の息子は村にいるとのことでした。ひとり娘はタイに働きに行っていると、お父さんは言いました。話を続けていると、タイはタイでも最南部の、マレーシアとの国境に近いハートヤイにいることが分かりました。遠くまで行っているものです。
私たちが話している間、居間のテレビは着いたままで、中国のドラマが放映されていました。隣にいた住職に「中国語は分かりますか」と聞くと、「聞くのは分かるが、話せない。漢字も書けない」とのことでした。
家のお父さんが言いました。「明日(4月11日)から孟連(隣県)では傣族の水掛祭が始まる。明日は『捕魚日』だ」。孟連の水掛祭は、徳宏や西双版納よりも早く始まるようです。また3日間つづく祭本番の前日は「捕魚日」で、県の役人たちが出て魚を捕るのだそうです。「そうしないと、祭は始まらない」。
村にいたあいだ、なんだかあまり中国にいる気がしませんでした。
夕方になり、また再訪することを約束して、私たちは村を後にしました。
1. 上座仏教では、新暦の7月から10月ぐらいの雨期の期間を「安居」(あんご)と言います。かつて僧侶たちはこの期間には遊行をやめてお寺に留まったと言われ、今でもお寺での行事が多い時期です。お坊さんの経験年数は、安居を何回過ごしたかによって数えられます。