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文化人類学と民族音楽学――音楽と身体の人類学的研究に向けて(1)

 私の専門は文化人類学ですが、私自身は常に音楽文化について関心をもってきました。アメリカの黒人教会をフィールド調査してきたのも、広く「黒人音楽」と呼ばれる音楽文化の基層について、もしくは一般の人びとのレベルで音楽実践がどのように形づくられているかについて、知りたいと思ったからです。

 ところで、自分の研究について紹介すると、「それはつまりゴスペル音楽の研究ですね」と言われることがしばしばあるのですが、私自身は常にそのことに違和感をおぼえてきました。というのも、フィールド調査を始めて以来、私の関心は、ゴスペル音楽というジャンルについてというよりは、礼拝儀礼の場で音楽の演奏に伴って起こるトランスダンス、牧師が信者に説教する時の「かたり」が「うた」と見分けがつかなくなる現象、音楽が人々を身体的に共振させる瞬間の音楽家たちの微妙なやりとり、うたやダンスや憑依といった表現とそれが起こる身体の内側にあるとされる感情のつながり、といったものに移っていったからです。最初にこうした現象を調べ始めたのは単に面白いと思ったからですが、最近は、自分の研究が人間の音楽的行動一般の研究にある程度の貢献ができるのではないかと考えるようになってきました。

 とはいえ、これらの問題を正面から論じるのは簡単ではありません。というのも、私が追究したい問題はどちらかといえば「音楽とその周辺の人間行動」といったようなもので、はっきりと「音楽」とカテゴライズできないからです。現在までのところ、人々が音楽的な行動(うたう、おどる、特定の形式で発話する)に動機づけられる際のコミュニケーションの過程を微視的に記述することで自分の関心に迫ってきたつもりですが(野澤, 2010)、最近は自分の研究を紹介する際に「黒人教会における音楽と表現文化について調べている」と言うようにしています。そちらの方が私の考えている問題をよくイメージしてもらえて良いのですが、ここにも「身体のコミュニケーション」や「相互行為」という側面が含まれないという欠点はあります。



 文化人類学と音楽の研究のあいだには「民族音楽学」という分野があります。私の理解によると、世界の音楽を各々の文化の枠組みのなかで理解しようとする学問で、主な調査方法は文化人類学と同じくフィールドワークです。ただし、民族音楽学は音楽学の伝統にも属していて、その証拠にアメリカの大学で民族音楽学者が所属しているのはたいていが音楽学部のようです。また、多くの大学教育における民族音楽学の役割のひとつにワールド・ミュージックのアンサンブルを教えるというのがあり、これも音楽学部ならではの教育と思います。3月から4月にかけて行われたアメリカ民族音楽学会の中西部支部大会で口頭発表をした際に、多くのアメリカの民族音楽学者と話をする機会がありましたが、その時に会った民族音楽学者のほぼ全員が音楽的な教育を受けたバックグランドがありました。簡単に言うと、民族音楽学者の大半は一定以上のレベルの音楽パフォーマンスを人前ですることができて、なおかつ音楽を楽譜にして分析することができるということです。

 ところで、民族音楽学者のなかには、民族音楽学と「音楽人類学anthropology of music」が同義だと主張する人もいるのですが、私は必ずしもそれにうなずけないところがあります。というのも、音楽の人類学的研究を自称するのであれば当然そこに含まれるべきと私が考える重要な部分を、民族音楽学は真剣に議論してこなかったのではないか、という印象を私はもっているからです。たとえば、黒人教会の音楽文化についての研究は、民族音楽学者による蓄積がかなりありますが、その多くが音楽ジャンルとしての「ゴスペル音楽」についての研究で、先述したような「音楽とその周辺の行動」について調べたものはほとんどありません。

 ひとつの具体例に「ダンス」があります。民族音楽学の教科書や事典を参照すると、「民族音楽学は、世界の文化の音楽とダンスを研究する」という記述に出くわしますが、私の知る限りでは、実際にダンスや身体の動きについて研究した民族音楽学の文献はごくまれです。世界中で音楽がダンスや身体の動きと共に楽しまれていることを考えると、不思議なことといえます。私はこのことを長いあいだ疑問に思っていたので、ある時、こちらの大学で音楽文化について研究している文化人類学者に訊ねてみたことがあります。すると、「ダンスはパフォーマンス・アーツ学部の専門だと思って、誰も簡単にやりたがらないのではないか」という答えが返ってきました。後日、別の民族音楽学者にも訊いてみたのですが、その人も同じような理由があることを認めていました。仮に、隣接分野へのある種の遠慮から重要な研究トピックに取り組めないというのであれば、残念なことです。しかも、(私の理解によれば)パフォーマンス・アーツの学部では基本的に舞台ダンスを研究しているのですから、一般の人びとが楽しみや儀礼のなかで踊るという行為を民族音楽学者が研究しても、何の問題もないように思われるのです。

 別の言い方をすると、従来的な民族音楽学の研究は「音楽」もしくは「サウンド」の研究を重視しすぎてきた、と言えるのかもしれません。民族音楽学の確立以前は「音楽」がそのまま西洋クラシック音楽を意味したことを考えれば、民族音楽学者がインドネシアのガムラン音楽からアフリカ・ピグミーのポリフォニー歌唱までも研究対象にしたことは、大きな前進です。しかし、仮に民族音楽学者が記述し分析するものが、「音楽」として抽出可能なサウンドであったり、そのサウンド自体の良し悪しを語るためのローカル・タームにもとづく民族美学にとどまるのであれば、それはあくまで西洋起源の「音楽」という概念を相対化するにはいたらないように思えます。民族音楽学の基礎文献とされる研究書のなかでも身体は必ずしも中心的なトピックではなく、あったとしても楽器を弾いたり発声したりする際の、個としての身体が問題になる程度です1)。ここでも、「音楽」の問題が人間の聴覚と音響に限られているようにみえます。

 一方で私が研究している黒人教会では、会衆の前で演奏するタイプの音楽(=ゴスペル音楽)の演奏が、民衆的な教会の礼拝ではそれほど重要ではなくなってくるケースがあります。民衆的な教会では、説教師のスピーチ、信者の信仰告白、叫び、楽器の音、トランスを伴う踊りなどが、混然一体となって起こることがあり、そうした時間が礼拝体験のなかで最も重視されるのです。私の目には、そうした瞬間でこそ音楽が最大の力を発揮しているように映るのですが、その時に演奏される「音楽」はどちらかといえばごく単純なものにすぎません。また、そこで鳴り響いているサウンドをいくら記述しても、人々がそこで感じているであろう喜びや感動には到達することは、おそらく出来ないでしょう。

 この問題には二つの背景があるように思えます。ひとつは、「音楽」というものが一部の人々によってその他の人びとに(演奏というかたちで)提示されるものであるという前提です。もうひとつは、記述と分析の対象が「音楽」から「音楽とその周辺の行動」へと広がっていかない点です。この二つの想定を取り去れば、音楽がその力を最高潮に発揮しているさなかに、人間同士の非言語的なやりとりが存分に行なわれているということを、もっと容易に把握できるはずです。私は、「音楽」と呼びうる音響的なパターンだけを相手にするのではなく、身体の運動や他者との同調の過程、別の言い方をすると「原音楽的な行動」2)が射程に入れられてこそ、音楽が人類学的に研究されていると言えるのだと思います3)



 これらの問題をうまく回避する方法のひとつが、クリストファー・スモールが提唱した「ミュージッキングMusicking」という概念を導入することでしょう(スモール2010)。――これは従来名詞形で考えられてきた「音楽music」を「to music/musicking音楽する」という動詞形で考えるところにポイントがあるのですが、そうすることで、音楽を作品や特定の音響パターンといった「モノ」としてではなく、人間の全体的な活動として把握することが可能になってきます。「ミュージッキング」とは、演奏すること、聴くこと、踊ることはもちろん、音楽パフォーマンスの出来事に参加するどのような行為も含まれるのです。スモールは、音楽という活動が一部の才能ある演奏家がその他大勢の(しばしば「無能な」)聴衆に対して行なわれる一方向的なコミュニケーションである、という西洋近代的な想定に私たちが囚われていると言います。しかしそうした想定は、音楽する人々のあいだにある相互作用を念頭に入れていない誤りにすぎない、聴き手の反応が演奏を力づける場合を考えなければならないし、そもそも演奏者と聴き手が明確に分かれていないミュージッキングも世界には数多くあるではないか、音楽パフォーマンスとは音楽の行為を通じて行なわれる人間同士の出会いなのだ――そうスモールは主張します。

 スモールの主張を私の関心につなげると、次のように言うことができます。――音楽の研究にも、いったん音楽的行為の範囲をダンスなどの身体的な身ぶりにまで広げたうえで、さらに各々の行為のやりとりや同調する過程についての研究が必要なのではないか。理論言語学の一領域に語用論があるように、こうした研究も広義の音楽学のなかに「ミュージッキング研究」として位置づけられてもよいと思います。個人的な理論的目標を今の時点で言葉にするとすれば、私なりの「音楽と身体の人類学」の構築、と言えると思います4)。もちろんここでいう「身体」とは、生理的な身体や個としての身体ではなく、音を介して他者とつながり合う身体であり、他者を模倣する身体であり、リズムに乗ってシンクロする身体という意味です。



 今回は、民族音楽学と文化人類学が交わる地点で研究を続けてきた学者との対話について書こうと思ったのですが、まえおきがあまりにも長くなってしまいました。それについては次回に報告することにします。
(次回へつづく)




1)たとえば、学問としての民族音楽学のスタンスと方法論を確立したとされるアラン・メリアムの『音楽人類学』(1964)やジョン・ブラッキングの『人間の音楽性』(1973)を参照。ブラッキングは自身が編集した『身体の人類学Anthropology of the Body』(1977)に、ここで私が問題にしたい「交流する身体」に直接つながる非常に優れた序文を書いていますが、惜しまれるのは、彼がその議論を民族音楽学の議論に接続していないことです。少なくとも、彼のそこでの議論がその後の民族音楽学に大きなインパクトを与えた様子はありません。
2)「原音楽」とは、音楽療法の分野でヒトの音楽性や音楽の社会性について優れた考察をしているブリュンユルフ・スティーゲによる概念です(スティーゲ,2008:152)。
3)これは「○○人類学」と呼ばれる分野のことを考えてみればわかります。経済人類学が市場のメカニズムを前提としない人間のあらゆる交換行為を相手にし、政治人類学が国家を前提としない人間社会のあらゆる政治性に着目するように、「~人類学」を自称するのであれば、近代的な「経済」や「政治」の概念自体の相対化を目指すべきです。
4)これに通じる研究はすでに一部の民族音楽学者たちによって提唱されています。理論的にはMartin Claytonら(Clayton, Sager, and Will, 2005)とCharles Keil(n.d.)の研究がありますし、Kyra Gaunt(2006)による「遊びのリズムと音楽」についての興味深い研究が米国民族音楽学会のアラン・メリアム賞を受賞しています。また、注2)で言及したスティーゲの研究、それから(民族音楽学がずっと敬遠してきた進化論に抵触しているためか、この分野ではほぼ言及されることがありませんが)認知考古学者のスティーヴン・ミズンの研究(ミズン,2008)なども、ここで言う音楽の人類学的な研究に入るはずです。



文献
ブラッキング,ジョン.1978(1973).『人間の音楽性』徳丸吉彦訳,岩波書店.
Blacking, John. 1977. "Toward An Anthropology of the Body." In J. Blacking (ed.). The Anthropology of the Body. pp.1-28. Academic Press.
Clayton, Martin, Rebecca Sager, & Udo Will. 2005. "In Time with the Music: The Concept of Entrainment and its Significance for Ethnomusicology." Special ESEM-CounterPoint, Volume 11.
Gaunt, Kyra D. 2006. The Games Black Girls Play: Learning The Ropes from Double-Dutch to Hip-Hop. NYU Press.
Keil, Charles. n.d. "Groovology and the Magic of Other People's Music." 《http://musicgrooves.org/articles/GroovologyAndMagic.pdf》(2012年5月4日閲覧)
メリアム,アラン.1980(1964).『音楽人類学』藤井知昭・鈴木道子訳,音楽之友社.
ミズン,スティーヴン.2006(2004).『歌うネアンデルタール――音楽と言語から見るヒトの進化』熊谷淳子訳,早川書房.
野澤豊一.2010.「対面的相互行為を通じたトランスダンスの出現――米国黒人ペンテコステ派教会の事例から」『文化人類学』第75巻3号, pp.417-429.
スモール,クリストファー.2011(1998).『ミュージッキング――音楽は〈行為〉である』野澤豊一・西島千尋訳、水声社.
スティーゲ,ブリュンユルフ.2008(2002).『文化中心音楽療法』阪上正巳監訳,音楽之友社.






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