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チャールズ・カイルとの対話――音楽と身体の人類学に向けて(2)
4月になってから、アメリカの民族音楽学をリードしてきた2人の大物学者、チャールズ・カイルとトマス・トゥリノに会ってきました。どちらも民族音楽学者のなかでも文化人類学寄りの研究スタンスをとってということに加えて、彼らの議論に共感できるところが多く、その背景にあるものを直接会って訊いてみたいと思ったからです。
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民族音楽学から"グルーヴ"の科学へ
チャールズ・カイル氏は、1966年に出版された修士論文『アーバン・ブルース』がいち早く日本語に訳されたことをはじめ、世界でも最も早く日本のカラオケ文化に言及した論文を発表したり、近年では小泉文夫音楽賞を受賞したりと、何かと日本にゆかりのある研究者です。学術的な本や論文であっても行間から世の中の人種差別主義や階級的偏見に対する怒りを醸し出す文章を書くような人なので、さぞアグレッシブな人物に違いないと思っていましたが、実際に会ってみると(さすがに70歳を過ぎて)"怒れる人"ではありませんでしたが、カリスマ的な魅力にあふれた人でした。十年あまり前にニューヨーク州立大学バッファロー校を定年退職して、現在は奥さんのアンジェリキさんとコネチカット州にある田舎町で、二人で暮らしをしています。アカデミックな活動からは距離をおいて、子どもに打楽器の演奏を教えたり、ブラスバンド編成の反戦・反核のデモを定期的に行なったりしています。
カイル氏は、アメリカ黒人の都市のブルーズ、ナイジェリアのティヴの音楽とダンス、ポーランド系アメリカ人のポルカ・パーティーなどの多くのテーマについてフィールドワークにもとづく優れた著作を残しましたが1)、研究キャリアのごく初期の頃から音楽研究における身体の重要性について説いてきました。たとえば、モダンジャズの演奏から聞こえてくるフィーリングやドライヴ感などは楽譜として記述されない微妙な音の揺れやタイミングからなっているはずで、そうしたフィーリングは"身体の動きmotion"に基礎づけられている、といったものです2)。ここまでは(少なくとも今となっては)比較的当然のこととして受け取られる主張ですが、彼の議論がユニークなのは、この微妙な音のタイミングについての議論をもうひとつのキーワードである"参加"につなげていることです。――それにしても、特定のサウンドの質が"参加的"とはどういうことでしょうか? カイル氏の考えでは、そうしたフィーリングによって、人びとは指を鳴らしたり、身体を揺らしたり、立ち上がって踊りだしたりする――つまり音楽が人々の参加を呼び起すからです。そうしたサウンド上の質のことを"参加的な食い違いParticipatory Discrepancies(略してPDs)"と概念化しているのですが、その核心は、音楽の力とその社会的な意義は人がその場に巻き込まれるところにこそある、というものです3)。
私にとって、PDというアイディアはずっと「参加論」として魅力的であり続けているのですが、同時に、疑問に思っている部分もありました。音楽に人々を巻き込む力があるのは良いとして、それがサウンドの質としてしか強調されていないように思えたからです4)。人びとが音楽的行為に実際に乗り出す過程を研究しようとするのであれば、ミュージッキングの場で起こる行動を記述してもよいはずで、実際カイル氏はPDを説明する際に「身体の動き」、「相互行為」、「コミュニケーション」という概念にさかんに言及しています5)。だとするとなおさら、サウンドの研究に集中することは彼が提唱し続けた"社会音楽学"の理念6)と矛盾するのではないか? ――これが実際に会って確かめたかった私の疑問のひとつでした。
今回の対話でカイル氏は、PDのことを、遊び、演技やコメディなどのエンタテイメント、卓球やボクシングのようなスポーツを例にあげて、そうした人間同士のやりとりのあいだにあるdiscrepanciesのことだと説明してくれました。この先は私自身の解釈も混ざるのですが、予定調和的に揃う「ことになっている」音や動きというよりは、同調に向かってゆく過程に見られるdiscrepanciesということのようです。いずれにせよ、PDは、原理的には"音"だけではなく非言語的なコミュニケーション全般におよぶものとして構想されていたわけです。それでも音の測定にこだわるのはサウンドPDの存在を音楽学者に証拠として提示するためであって、PDの研究は本来、全体的(ホリスティック)でなければいけないし、さらには身体の動きや「遊び」や「フロー」といったホリスティックな現象から"音楽"を切り離さなければならないという思い込みは狭い意味でのプロフェッショナリズムに過ぎない、ということを話してくれました。
これは私の考えていたことにかなり近いことだったので大いに納得したのですが、話をしていて目下調査中のアメリカ黒人教会とは別の事例について思い当たったことがあります。――私は石川県の太鼓文化についての広域調査およびフィールド調査をしたことがあるのですが、その成果を報告書にまとめる際に、難しい問題に突き当たりました7)。それは、伝統的な太鼓パフォーマンスと現代版の太鼓パフォーマンスのあいだにある根本的な違いをどう言語化するか、という問題です。どちらもステージ上で演奏するタイプの近代的な芸能ですが、プレーヤーの一人ひとりが自分の叩き方を作りだし、仲間と息を合わせながら一つの太鼓を叩く前者のパフォーマンスと、ずらりと並べた太鼓をユニゾンで叩く後者のパフォーマンスでは、同じ「太鼓」というラベルで呼ぶことはできても、同じタイプのパフォーマンスではまったくありません。この感覚は、創作太鼓と伝統太鼓の両方のプレーヤーにもある程度は共有されていました。PDという概念がメトロノーム的で客観的・理念的なタイミングのアンチテーゼとして提示されていることを考えると、「ユニゾンによる大音量」8)ときびきびとした動作を特徴とする創作太鼓と、音の揺れをたくさん含みプレーヤーが個性を豊かに表現する伝統の太鼓のあいだにある根本的な違いも、PDを軸に言語化しうるように思えます。とすると、芸能や身体パフォーマンスを含むものとしての「音楽と身体の人類学的研究」にとってPDが重要な位置を占めていることは間違いありません。
カイル氏の自宅にて。
"地元の喜びlocal pleasure"のためのグルーヴ学という構想
このように、従来的な音楽学はもちろんのこと、多くの民族音楽学とも異なる独自な視点で人間の音楽実践を捉えてきたカイル氏ですが、彼の根本にはいったいどんな関心があるのか? ――これも気になっていた点でした。本人によると、彼の関心は常に、「何が人々を立ち上がらせてダンスさせるのか」、「なぜ人々はミュージッキングをすることで泣くのか」、「ミュージッキングで引き起こされる感情とは何なのか」ということだったそうです。それらが音楽学の問題でも心理学の問題でもないと気づいて思考錯誤するうちに、"原初的コミュニケーションprimary communication"もしくは"参加的意識participatory consciousness"の問題ではないかと考えるようになったのだと言います。既存の学問領域にとらわれることなく、アメリカ黒人やナイジェリアのティヴ、ポーランド系アメリカ人の労働者階級の人々のミュージッキングから彼自身が感じ取った感動を言語化しようと格闘してきたカイル氏の姿勢に、私自身はある種の畏敬の念をおぼえます――狭い意味での学術的関心が物事の本質を見る目を曇らせるということが、往々にしてあると思うからです。彼自身も、理論より自分の直感に従って研究を続けてきたという意味合いのことを話していました。
現在のカイル氏は、自身の学術的探求と実践を"グルーヴ学groovology"と呼んでいます。――他者を立ち上がらせたり、指を鳴らさせたり、テーブルから離れてダンスさせたりするためには、どんなふうに演奏したり歌ったりする必要があるのか。そうしたことを知るための科学、という意味です。"グルーヴ"というと感覚的で、学術用語としては奇異な印象もありますが、そもそもカイル氏の関心はすでに学問よりも「ハッピーに生きることの探求」に移っているというのですから、これはこれでぴったりの名称です。ここには、彼の直感志向はもちろん、世界の人びとのミュージッキングに対する共感も良く表われているように感じます。――"グルーヴ"がキーワードになるということは、研究する側もそれを感じている、研究対象となる人々の感情に共感するということを前提しているはずだからです。つまり、これは客観的で科学的な研究を目指していても、文化を超えた共感を基盤にしているはずで、これも、身体という人間に備わる共通基盤の重要性を唱え続けてきたカイル氏ならではの発想と思えます。
ところで、カイル氏はグルーヴ学のことを、再現性をそなえた科学として構想している節がありますが、それは民族音楽学者・文化人類学者としての自身の経験を自分の社会に応用するためのです。同じ理由から、グルーヴ学は地域に根差した活動local actでもなければならないと言います。――たとえば、現在のカイル氏は定期的に子供たちに楽器の演奏を教えています。そこでの目標は(特定のメロディやハーモニーをおぼえるというのではなく)子供たちがより良いミュージッキングをできて、より良くグルーヴできるようになることであり、それを達成するためにグルーヴを科学的に把握することが必要だというのです。音楽教育学者のパトリック・キャンベル氏と共同で作成したBorn to Grooveというウェブブック(こちらhttp://borntogroove.org/)は、その試みのひとつです。当然のことですが、これは演奏レベルの高い子供を育てるといった通常の音楽教育とは正反対を行くものです。カイル氏は、そうやって仲間とグルーヴすること、自分のグルーヴで他者を巻き込むことを身につけた人々が、地元の喜びlocal pleasureを充実させてゆくのではないか。そうした活動が、ナショナリズムや帝国主義とは別のローカルな帰属意識を人々なかに芽生えさせるのではないか。さらには、それが天然資源に依存し環境を破壊する現代社会のオルタナティヴになるのではないか、と期待します。彼はこの考えを、スローフード運動を例に話してくれました。人々がグルーヴする科学とエコロジー思想(彼はこの二つを組み合わせて"エコーロジーechology"と呼んでいます)――この二つを同時に論じるというのはいかにも力技な感じもしますが、よく考えてみると"small is beautiful"の思想に通じる可能性はあります。私は、彼の議論のこの側面については十分に消化できなかったのですが、カイル氏の理想の高さとエネルギーに満ちた語りには非常に感銘を受けました。
今回も長くなりすぎました。次回はトマス・トゥリノとの対話について書きます。
注
1)カイル氏のこれまでの研究経歴や業績はこちら
(http://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/award/22ck2.html)。
もう少し詳しいものもあります
(英文;http://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/award/22ck1.html#2)。
2)Charles Keil. 1994(1966) "Motion and Feeling through Music." in Charles Keil & Steven Feld. Music Grooves: Essays and Dialogues. University of Chicago Press. pp.53-76.
3)Charles Keil. 1994(1986) "Participatory Discrepancies and the Power of Music." in Keil & Feld. Music Grooves. University of Chicago Press. pp.96-108.
4)アメリカのEthnomusicology誌では1995年(第39巻第1号)にPDの特集が組まれましたが、そこで取り上げられる事例はすべてミクロなサウンドの分析でした。
5)Keil. "Participatory Discrepancies."
6)カイル氏は、音楽とその他の社会的行動とのあいだにある"limbo(忘れ去られている領域)"を体系的に研究する必要性を早くから説いていました(Charles Keil,. 1998. "Applied Sociomusicology and Performance Studies." in Ethnomusicology, 42(2), p.311n4)。
7)野澤豊一「石川県の太鼓文化――広域調査をもとにした類型化の試み」『金沢大学日中無形文化遺産プロジェクト報告書第15集 石川県の太鼓文化』pp.3-31(2011年)。野澤豊一「加賀太鼓の『難しさ』について」『金沢大学日中無形文化遺産プロジェクト報告書第18集 石川県の太鼓文化――加賀太鼓篇』pp.55-86(2012年)。
8)Charles Keil. n.d. "Groovology and the Magic of Other People's Music." p.7. 《http://musicgrooves.org/articles/GroovologyAndMagic.pdf》(2012年5月4日閲覧)