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トマス・トゥリノとの対話――音楽と身体の人類学に向けて(3)
Music as Social Life――"参加型音楽"という視点
今回は、最近会ってきたもう一人の民族音楽学者、トマス・トゥリノ氏との対話について書きます。トゥリノ氏は、日本では前回報告したチャールズ・カイル氏ほどは知られてはいないかもしれません。ペルー、ジンバブエ、そしてアメリカでフィールド調査を重ねてきて、今月でイリノイ大学を退職するという民族音楽学者です。実は――前回「大物学者」と書きましたが――、私も2008年に出版されたMusic as Social Life: The Politics of Participation(シカゴ大学出版局:こちら;http://www.press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/M/bo5867463.html)を手に取った数ヶ月前までは、彼のことを知りませんでした。この本は、クリストファー・スモールが長年論じてきた"行為/活動としての音楽"という思想1)やチャールズ・カイルのPDの概念を著者なりにわかりやすく消化して、その意義を従来的な民族音楽学の議論にスマートに導入しているという点で特筆すべき存在で、私もこれを読んでトゥリノ氏に会ってみたいと思ったのでした。ちなみに、UCLAの民族音楽学部で教鞭をとっているアンソニー・シーガーは、民族音楽学の古典とされるアラン・メリアムの『音楽人類学』やジョン・ブラッキングの『人間の音楽性』の21世紀版である、という趣旨の紹介文を書いています。
Music as Social Lifeにはいくつかの重要な論点がありますが、なかでも人間の音楽文化や音楽活動を――従来的なクラシック音楽、ポピュラー音楽、民俗音楽、世界音楽などという区分ではなく――「参加型音楽participatory music」、「提示型音楽presentational music」、「ハイフィデルティ音楽」、そして「スタジオアート音楽」として、大きく4つに分類しているところに、私は注目しています。大づかみに説明すると、参加型音楽とは人々がダンスや歌唱で活動に加わることが理想とされるタイプの音楽、提示型音楽とは何らかの曲を観客の前で演奏するタイプの音楽、ハイフィデルティ音楽とはライヴ演奏の再現(もしくはその効果)を狙うタイプの音楽、スタジオアート音楽とは生演奏の提示とは切り離された、加工されたサウンドを作りだすタイプの音楽です。別の言い方をすると、ここで提示される参加型音楽とは、"活動/行為としての音楽"の相を、近代的な概念としての――つまり"音楽"と言って現代の私たちが思い浮かべるタイプの――音楽との関係のなかで把握可能にしているのです。
Music as Social Lifeでは4つのタイプをほぼ同等の紙数を割いて論じているわけですが、ここでは"身体と音楽の人類学の研究"にかかわりの深い参加型音楽を中心に、トゥリノ氏の議論と今回の対話の内容をまとめてみます(トゥリノ氏自身も、この著書によって参加型音楽をもっと世の中にプッシュしたいと言っていたので、ここで私が議論の一部だけを取り上げるからといって彼の意図を無視していることにはならないと思います)。参加型音楽とは、「何らかのパフォーマンスを人前に提示する」というタイプの活動を伴わない――したがって、スターシステムや録音物、チケットの売買とは無縁な――音楽やダンスなどが混然一体となった活動のことで、芸術的作品や商品を作るタイプの活動というよりは、実際に人々が"する"というタイプの音楽的活動を言います2)。典型的には伝統社会における儀礼やフェスティヴァルの一部として実践されているものを指しますが、現代社会にも参加的音楽の伝統は息づいています。しかし、パフォーマンス自体に人々が巻き込まれることが望まれるケースが多い参加的なパフォーマンスは、競争とヒエラルキーが支配的でしばしば経済的な利益が一義的な目標である資本主義的なシステムにはうまくフィットしない傾向があります。そのため、アメリカのような国では参加型音楽の伝統は特定の"文化的小集団cultural cohorts"の活動として社会の隅に追いやられているケースが多く、まさにその理由で、現代社会の参加型音楽は、主流社会に対するオルタナティヴを形成しています3)。このオルタナティヴな文化的小集団の例として、トゥリノ氏はダンスパーティーのためのストリングスバンドの演奏活動を含めて詳しく論じているのですが、これはトゥリノ氏自身のストリングスバンドのメンバー(バンジョー担当)としての経験に裏打ちされたものです。
トゥリノ氏は、参加型音楽というのはもっとも民主的で人々を巻き込みうる音楽の形態でありながら、資本主義社会ではもっとも理解されていないし、十分に研究されてもこなかったと言います――彼はその理由を「演奏が平均レベル以下だったり、利益を生み出さなかったりするからだろう」と言って笑っていました。参加型音楽を参加的にしているのは多くの場合"踊る"という行為ですが、西洋的な概念世界では"音楽(の演奏)"という行為と"ダンス"という行為が別カテゴリーに属するとみなされていることも、その理由でしょう。また、この指摘は日本の音楽文化研究の状況にもある程度当てはまるといえるかもしれません。たとえば、日本の参加型音楽、もしくは参加的な要素を多くもったミュージッキングに何があるかと考えてみると、神楽、獅子舞、盆踊り、カラオケ、YOSAKOIソーランなどが思いつきます。しかし、これらが十分にトゥリノ氏のいう意味での「参加型音楽」として研究されているかといえば、必ずしもそうとは言えないように思うのです。
イリノイ大学アバーナ=シャンペーン校にあるトゥリノ氏の研究室にて。
音楽への参加が社会を変える?
Music as Social Lifeは、「お金のため? それとも愛のため?」というタイトルの短い章で締めくくられています。トゥリノ氏はそこで、参加型音楽という概念を提出した理由を、音楽の行為の捉え方が多様でありうること、そのなかでも参加型音楽が独自な方法で人間同士を連帯させること、それが必ずしも"他者"の音楽実践なのではなく自分たちの社会にも存在するし、自分たちでも生み出しうるということをわかって欲しかったからだと書いています4)。この点について、彼は、自分たちの社会で参加型音楽を実践する小集団に加わることは、天然資源を枯渇させて環境を破壊する、資本主義に裏打ちされた価値観によって出来上がった活動に参加することとは違う、と説明します――たとえば、「休日にはショッピング・モールで買い物をする」という典型的なアメリカの消費文化と比べてみれば、音楽的な活動がその種の消費とは違うことがわかります。人々がそうした活動に時間を割くことは、社会の革命的な変化にはつながらないかもしれないが、染みついた個人の習慣を変えることにはつながりうるだろうと言うのです。トゥリノ氏は、「僕が伝えたいことは、近所の草野球がワールドシリーズよりもずっと大事だということ。そういう価値観が広まって、誰もがスポーツをしたり音楽を作ったりすれば、それが消費とは違う。そうすれば人生はもっと豊かになるだろう、っていうことなんだよ」と言い、この発想が"小さいことはよいことだsmall is beautiful"という理念や持続可能な社会に向けた提言につながるはずだと話してくれました5)。
自らの民族音楽学・文化人類学的な研究が人間社会の未来に貢献すべきだという理念に支えられているところは、前回のチャールズ・カイル氏とも共通するところで、今回も大いに感心させられました。トゥリノ氏は、「自分は社会の年長者なのだから、社会的な発言をする責任がある」と言いますが、その姿勢は実生活にも反映されていて、彼は自分の子どもたちも同じ理念で育てたと言います。長男は大工でミュージシャン、長女は貧困層のための住宅供給NPOで働いて、どちらもアメリカ特有の消費主義的なライフスタイルとはまったく無縁なのだそうです。「個人の習慣を変えることの大事さをこの本で書いたのだから、自分もタバコをやめたところだ」と言って笑っていました。
注
1)クリストファー・スモール.2011(1998).『ミュージッキング――音楽は〈行為〉である』野澤豊一・西島千尋訳、水声社。スモールによる"ミュージッキング"の概念については、前回のコラム(http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/other/colum/colum_20120512.html)を参照。
2)Thomas Turino. 2008. Music as Social Life: The Politics of Participation. University of Chicago Press. p.25.
3)Ibid. pp.35-36.
4)Ibid. pp.226-227.
5)Worlds of Music誌の第51巻第1号では、「音楽と持続可能性」についての特集が、ジェフ・タイトンの編集によって組まれていて、そこにトゥリノ氏も寄稿しています。