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ウズベキスタン訪問 報告書(序章)

 今月(5月)初めから約3週間にわたり、中央アジアの国ウズベキスタンを訪問してきました。今回の訪問の目的は、以前からウズベキスタンの伝統的な文化要素や民俗素材を作品に取り入れ発表を続けている作曲家、Polina Medyulyanovaと現地を訪ね、彼女の創作の原点を探ることでした。

 初めて私が耳にした彼女の作品は、2008年にコペンハーゲンで行われた第8回世界合唱シンポジウムにて発表された作品「Ofiyat」で、この作品が収められ、『World Sun Songs』と名付けられた作品集は、世界的に活躍するラトヴィアの合唱団「Kamer…」が17人(16ヶ国)の作曲家に委嘱した書き下ろし作品によって構成されています。作品集製作に至る経緯に関しては別の機会に紹介するとして、「作曲家それぞれのもつ民俗のプリズムを通して太陽の織りなすものをテーマとする作品」1)であることが作品委嘱の条件の1つであったため、実に多様な太陽の描写、解釈、イマジネーションに富むすばらしい作品集に仕上がっています。この秀逸なコンセプトの基、特色豊かな作品が並ぶ中、Polina Medyulyanovaの作り出す独特の音響感と彼女の描き出す世界観に強く惹かれ、コンタクトを取り始めたのが彼女との交信の始まりです。

 本研究のメイン課題として、彼女の作品分析を行い、その創作方法を学ばせて頂いていますが、作曲家として「音」にする事で見えてくるものの方が大きいだろう、という彼女の提案から、今回の滞在期間中にセッションをもったウズベキスタン・ブハラの民族音楽演奏家に演奏頂いた楽曲を素材に作品を創作し、お互いに交換することを約束しました。今後、このような共同研究を継続的に行っていくことができれば、相互の文化理解を深めることに結びつくのではないかと期待しています。

 今回の約10日間に及ぶセッションは、Polina Medyulyanova及び、現地の音楽学者、民族音楽演奏家、ジャーナリスト、音楽大学教授、文学者などと行い、今後の研究協力、活動展開を約束するものとなりました。それぞれのミーティングの内容、成果に関しては、これから1号毎にキーワードを設定して報告していきます。この度の訪問では期待通り、文献資料や書籍等からは想像しきれなかったウズベキスタンの国を体感することができ、これまで電信のみで交わしていたPolina Medyulyanovaの言葉の背景、彼女の人間性をより鮮明に捉えることができました。これは彼女の音楽を理解する上で、欠かす事のできない機会であったと実感しています。まずは旅程完了の報告を兼ね、序章としてウズベキスタンの紹介と滞在の所感をここに記すこととします。


ウズベキスタン共和国

今回の訪問に先立って、周囲から「どこにある国なのか?」「安全な国なのか?」と様々な質問を受けた。私自身も基本的な情報は文献資料によって勉強していたとはゆえ、それだけでは理解しきれない歴史的要素が複雑に絡み合った国であり、歴史研究家、地理学者でもない私がこの国を説明しようというのは無謀な試みであることは言うまでもない。しかしながら、これからウズベキスタンにおける「音楽」を理解するには当然ながら、この国の現状を把握することは必要不可欠である。まずは、少しでも具体的なイメージをもって頂くために、外務省のWebサイトに掲載されている基本情報などを基に、私が現地で得た情報を併せてウズベキスタンを極簡単に紹介する。



 上の地図から、ウズベキスタンの大きさや位置関係などは捉えて頂けるだろう。色づけされたこの国の面積は447,400km2とされており、日本の面積(377,950km2)2)の約1.2倍にあたる。そこに2,780万人3)が生活しており、日本の約1億2,700万人4)という人口と比較すると、いかに雄大な土地に人々が生活しているか想像ができるだろう。首都は、地図上にも記載がある通り、タシケント(Tashkent)に置かれ、民族の割合は、ウズベク系(78.4%)、ロシア系(4.6%)、タジク系(4.8%)、タタール系(1.2%)であると対外経済関係投資貿易省より報告されている。文化圏としては、首都タシケントと以東にあるフェルガナを中心とする地域、国土の腹部に位置するブハラ・サマルカンドを中心とする地域、ヒヴァ・ウルゲンチを中心とするホレズム地域に分かれるようである。それぞれの地域には、繁栄した都市の存在があり、そこに住む民族の違いから言語も異なり、それらは音楽の特徴にも及ぶ。同年代の出身者によると、進学やビジネスにおいてロシア語は必須であり、最低でもウズベク語、ロシア語は習得しているという。その上、英語、ドイツ語などを外国語として学ぶ人、イスラーム教の教育機関においてアラビア語を学ぶ人、また母語としてタジク語を話す人など、多数言語を自由自在に操る人が多く、アイデンティティー形成と母国語の結びつきを信じ、日本語に雁字搦めになっていた私はのっけからカウンターパンチを食らってしまうのである。どこの国の人(民族)であるから何語を話し、その言語がアイデンティティーの中核を形成する、という前提はもはや存在しない5)。一体どのような教育を受けているのかと、教育カリキュラムにも興味は高まるが、素人目に受けた印象としては、街で目にするほとんどの人が褐色の肌と黒髪をもつアジア人であるのに対し、キリル文字で表記された看板やメニュー、ロシア語しか話さない売店の店員と比較的高い割合で遭遇することから、両言語習得の必要性は日頃の生活に密着し、ウズベキスタンで生活するには必要不可欠なツールであることが想像される。同じ日本人でありながら、多言語に万能な方もいらっしゃるので一概には言えないが、国の人口の98%が日本民族である環境とは大きく異なるため、アイデンティティー形成と言語の関係については根本から考え直す必要を感じる。









(写真は、独立の際、レーニン像に取って代わったアミール・ティムール像。彼は国のシンボルとして讃えられている。)



独立20周年を迎えた「ウズベキスタン共和国」までの経緯

・下記は、外務省Webサイト6)に掲載されている略史からの抜粋である。
1~3世紀 クシャーン朝による支配
6世紀中頃〜 テュルク系遊牧民の侵入、住民のテュルク化が始まる
7世紀 ソグド人の活動が最盛期に
8世紀以降 アラブ勢力の侵入、イスラーム教の受容
9世紀後半〜10世紀 サーマーン朝成立
13世紀 モンゴル帝国の支配
14世紀後半〜15世紀 サマルカンドを首都とするティムール帝国成立
18〜19世紀 ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配
1860年〜1970年代 ロシア帝国による中央アジア征服
1924年 ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国成立
1990年3月 カリモフ大統領就任
1990年6月20日 共和国主権宣言
1991年8月31日 共和国独立宣言「ウズベキスタン共和国」に国名変更

 この後、1992年に再選を果たしたカリモフ大統領は、1995年に国民投票にて任期延長。2000年、2007年の選挙にて再選したカリモフ大統領による主導は20年以上におよび、共和制という政治体制ながらも各国のメディアには「dictator」の文字が並ぶ。2005年には生活苦と彼の政権に対して起きた民衆デモに対し政府が治安部隊を投入するという武力衝突事件があり、市民に多くの死傷者を出したことから「アンディジャン大虐殺」と呼ばれる。一連の事件の経緯や結果に関する調査が求められながら、詳細を公表しないウズベキスタンに対し、人権問題として国際的な非難と関心が集まる一方、これを機に軍を撤退させたアメリカから政治路線をロシアへと転換する。政治に対して全く明るくない私がコメントすることはできないが、国民が政治体制への不満を口にしながらも十分な信頼を預けられる指導者を欠く日本に対して、ウズベキスタンに暮らす人から政権に対する不平を一度も聞くことがなかったのが印象的である。その理由が「法に反しない限り」という条件つきで認められているという思想・言論・信条・表現の自由を定める憲法7)によるものだとしたら、悲しい現実だと認めざるを得ない。


ウズベキスタンで感じる違和感

 前項でも述べた通り、まだ社会主義が続いているのかと勘違いしてしまうような場面は滞在中に幾度とあった。それだけでなく、外から訪れた者には馴染まないが、誰もそれをおかしいと言わない場面にもよく遭遇する。ここでは、それらのエピソードをいくつか紹介しようと思う。

 まず、街中に常駐する警察官の多さに驚く。隣を歩く人が次の瞬間何をするかわからないと常に犯罪を警戒して生活する必要のある街であれば納得もできるが、ウズベキスタンを訪れる人なら誰もが感じるように、ここでは人々のコミュニケーションは根底に存在する「信頼感」によって支えられているような国であり、ニューヨーク以上の警官数を目にするのは大きな違和感の1つであった。しかしながら、見てそれとわかる制服警官があらゆる地下道の出入口に立っているのは英語の通じる場所が限られる環境の中にあって、大きな安心材料となっていることは事実である。観光地に駐留する警官の中には、我が物顔で歴史的建造物を訪れる観光客をターゲットに小遣い稼ぎをする者もいることは、各国言語による旅行記ブログなどで頻繁に目にする。汚職とまでは言えないかもしれないが、全ての警官が市民の味方であるわけではないことを物語っている。

 カリモフ大統領は、ユネスコ本部を訪れた際、ユネスコの保護下にある遺跡を3,000も国内に有することを主張した上で、「世界中の方が訪れ見学できるよう観光サービスの向上に努めている」8)とコメントしたとされる。そのほか、政府Webサイト9)には「Tourism infrastructure」と題し、「Uzbektourism」という国営会社を設立10)し、インフラ整備が進んでいることがアピールされている。これらの動きから、ウズベキスタンが観光業に力を入れていることは明らかなのだが、まず街歩きの必需品である地図が売られていない。案内して頂いた現地の方に土産物屋で売られている地図を買って頂いたのだが、お子様用と言わんばかりの代物であった。結局、あまり情報が更新されていないと思われる『地球の歩き方』11)に掲載される地図を最後まで持ち歩くこととなった。地下鉄は比較的簡単に利用できるが、地下鉄マップのようなものはどこを探してもなく、大きなバッグを持っていれば入口で持ち物検査が行われ、駅の中での写真撮影は禁止されており、観光客の使用を快く受け入れているようには思われない。余談であるが、地下鉄は大変贅沢な石造りで、駅毎にデザインの異なるシャンデリアが掲げられており、以前報道された北朝鮮の地下鉄の駅を思い出させるような、少し暗いながらも威厳のある雰囲気があった。地下鉄のみならず、鉄道の駅舎なども写真撮影が禁止されていたが、ガソリンスタンドでメタンガス車に改造された車のタンクを撮影しようとすることまで止められたのには驚いた。とにかく、外部に知られたくない情報が多いようである。








(写真は、郊外のガソリンスタンドの様子である。厳密には、メタンガス車に改造された車(トランク内にガス用のタンクを積んでいる)が順番を待っている。ガソリンスタンドに着くと、運転手以外の同乗者は降車するように求められ、ガスの注入が終わるまで、車外の離れた場所で待たされる。安全確保のためだと考えられるが、理由は不明である。)


 詳細地図が作成されないことに関わるかもしれない要因が1つある。それは、独立後、ソヴィエト時代に付けられた道路名の変更作業が今もなお続いているということである。言葉がわからないため、ロシア語かウズベク語によるやりとりの詳細を知ることはできなかったが、何度も目の前で建物の位置を確認する際に人々が言い合いになる場面に遭遇した。通りの名称が次々と変わるため、同じ場所を確認する際にも一苦労なのである。ロシア人家族は、いくら国が独立をしたと言っても、過去の偉大な人物は偉業を果たしたのだからその名前を排除する必要はないではないかと言い、ウズベク人の知人はソヴィエト時代の名前だから変更する必要があると言う。「独立」をアピールするための名称変更であることは明白だが、年代によって愛着のある場所の名前が異なり、共有を妨げるという現状は、目的を果たす前に想定外の結果を及ぼしているのではないかと思われる。これと関連して、ティムール・ダダバエフ氏の著書12)には、ローマ字表記への転換も人々に混乱を与え、年代を隔てたコミュニケーションを侵害していると指摘されている。現に、私も現地でセッションを行う際、複数のスペリングがやりとりされる中で正しい情報を得るのに苦労した。今まさに様々な事が転換されている最中であり、ある程度のリスクは仕方のないことなのかもしれないが、それによってこれまで培われてきたもの、人々が生活の中で育んできた大切なものが失われないことを願うばかりである。

 町なかの移動手段として、公共のものであれば地下鉄のほかにバスがあるが、これについてもルートマップのようなものは見当たらず、数字によって表されている目的地のみの表記を頼りに乗ることは観光客にとっては困難である。滞在中1度だけ現地の方と一緒に乗る機会を得たが、若いアルバイトの車掌がバス停に着くと行き先を案内し、バスの車中でチケットを売るというシステムであった。特に戸惑う要素はないが、土地勘がなければ乗りこなすのは難しいであろう。また街中を走るバスには最新式の大型バスもあれば、旧式の小型のバスが超満員の状態で走る光景もよく目にした。料金は地下鉄と同じく700スムであった。このほかにも、タシケントではトロリーバスが走り、国内どこの街でもマルシュルートカと呼ばれる相乗りバンが走っていたが、今回の滞在中に利用するには至らなかった。

 そして、公共のサービス以外に市民の足となっているのが白タクである。現在私が滞在するニューヨークでは、以前から白タクが乗客に高額請求するケースが問題となっており、規制がかかり始めているが、タシケントでは、車さえ持っていれば人を乗せられるという。日本の道路交通法では旅客自動車を運転する場合には、第二種運転免許が必要となる。予想通り、政府関連のWebサイトに英語での関連文は見つからなかったが、今年の3月付けで、「何千もの非公認のタクシードライバーが強制的な認可計画で失業の危機に晒される」という記事13)がNews Briefing Central Asiaから公開されていた。それによれば、タクシー業を行うためのライセンス料は500ドル/6ヶ月とされ、月に150〜200ドルにしか及ばない収入からの支払いは難しいというドライバーのコメントとともに、無認可での営業が見つかった場合には、680〜3,400ドルの罰金が課されると書かれている。ニューヨークでは、空港から市街までタクシーを利用する場合、タクシー料金は固定されているが、メーターの搭載されていない白タクに乗ってしまうと、値段の交渉を乗車前に行わなかった場合、不当な観光客価格を請求される危険が生じる。それに比べ、ウズベキスタンではメーターの搭載されたタクシーはなく、料金は乗車時に運転手と交わされる交渉によって決まる。よって、行き先を伝えると同時に自分の中での見積もりをもって交渉すれば大きな問題にはならないが、外国人を相手にする旅行業者サービスを利用すれば、その金額は一瞬にして観光客価格に跳ね上がってしまう。実際に、今回滞在したホテルと空港間の送迎料金では、15ドル(公式レートで約28千スム)と4千スム(現地の方の粘り強い交渉の賜物)もの差が生じるのである。しかしながら、市内を移動する際に想定外の料金を提示されることはほとんどなかった。交渉と言っても、1千スム〜2千スム(公式レートで1ドル弱)の違いが生じる程度で、悪徳ドライバーが存在するようには思えない。そういった彼らから月80ドル程度のライセンス料を徴収する目的がどこにあるのか、そこにも違和感を覚える。

 このように実際の滞在体験を紹介していくと、通貨について紹介しないわけにはいかないだろう。当初、公式レートと非公式レートの存在について、このような媒体で公表してよいのか憚れたのだが、現地に暮らす人、外国人観光客の皆が当然のこととして認識しているものであり、メディアの報道の中にもはっきりと「official rate」と「black market rate」という単語が登場するので、滞在時のレートについてここに記すことにする。入国日5月3日の公式為替レート(売価)は、1ドル1,886スムであった。それに対し、市場レートは、1ドル約2,850スムであった。ジェトロ・タシケントが公開している交換レート14)の推移によれば、2012年4月の期末公定レートが1,856.15スム/ドル、期末市場レート2,840スム/ドルとされているので、滞在期間中もインフレは進行していたことになる。約3週間の滞在中に、自分の財布の中で見たのは1,000スム、500スム、200スム、100スム紙幣と、100スム、50スム硬貨であった。もう一度、上記の為替レートを確認してほしい。1,000スムが最高額紙幣であるのに、その紙幣約3枚でやっと1ドル相当なのである。よって、少し気の利いたレストランで10〜20ドルもの食事をしたともなれば、約60枚近い1000スム紙幣を数えて店員に渡すことになる。銀行のバンクカードを持たない観光客は、当然現金を持ち歩かなくてはならず、毎朝、バッグに持ち歩く紙幣を数えて束ねる作業から一日が始まるのである。思いがけず、大量の札束を抱える生活を送る事となったのだが、ホテルなどオフィシャルな場所では徹底して公定レートが用いられる一方、メドレセの至るところに店を構える土産物屋(工芸品販売所)では、公然と店主が闇レートを電卓で打つのである。公式レートと市場レートの間の1,000スムもの違いは、どこでどのように形を変えているのか大きな謎である。


(写真左は、5 USドル相当のコーヒーを飲んだ際の支払いの様子である。5ドルというのは、ホテルのロビー価格で、一般的なカフェよりかなり高めの外国人価格である。写真右は、メドレセの中で作品を販売する工芸品販売所の様子。歴史的な建物のほとんど全てに、このような土産物屋が設けられており、皆テナント料を支払って店を構えるという。)

 このようなインフレの状況15)で、現地の人たちはいったいどのような金額の給料を手にしているのかと思い、平均収入に関する情報を探してみた。2010年9月1日付けの《Ferghana》News agency, Moscowの記事16)によれば、「カリモフ大統領は今年中にウズベキスタンの平均月収を500 USドルに到達させる、と独立記念日の祝典で述べた。しかし、経財省とウズベキスタン国家統計委員会によれば、2010年6月現在の平均収入はわずか476.4千スム(闇レートで200ドル強)であり、大統領の発言を達成するとなれば半年足らずの間にそれを2倍にしなくてはならなくなる。一方、目覚ましい経済成長が公式発表された2009年8月から2010年8月の1年間で、最低賃金はたった2 USドルしか上昇していない。」とここでも、現実と大統領の発言との間に存在する大きなギャップが指摘されている。先ほどタクシー運転手の例でも紹介したように、バザールで買い物を済ませ、気安く立ち寄れる店で食事を取るといった生活を送りながら、現地の人々の生活を伺う限り、必要以上のものを過剰に購入する姿や、暴飲暴食をする姿を目にすることは一度もなく、基本的には皆質素で慎ましやかな生活を送っているのである。この国にはダブルスタンダードが存在するのだろうか。



(写真上は、現地の方に連れていって頂いた大衆食堂の様子。
写真右は、ドーム型の屋根の下で地産品を販売するバザール
の様子。)




 またこのギャップをより痛烈に感じたのは、現地のジャーナリストから文化事業を行うNGOの紹介資料として頂いた2冊の全編カラーの豪華な冊子を手にした時であった。1冊は、カリモフ大統領の長女であるグリナラ・カリモヴァがオーガナイザーを務める「ウズベキスタン文化・芸術フォーラム(FundForum.uz)」財団の紹介冊子で、もう1冊は彼女が創始者である「Style.uzアートウィーク」の冊子である。手にした誰もが感じる用紙の材質や印刷のクオリティーは、文房具売り場で目にする祖末な筆記用具の質からかけ離れたものであり、ほとんど全てのページにモデルのように登場する彼女の姿やコンテンツは、ウズベキスタンで見る素朴な人々の暮らしとは全く結びつかないのである。各メディア情報によれば、タシケント国立大学経済学部を卒業、ハーヴァード大学にて修士号(地域研究)を、タシケントにある世界経済外交大学にて博士号(政治学)を取得し、2009年からは同大学の教授職ポストに就いている。またタシケント情報技術大学にて電気通信学の学士号を取得し、1992年にはニューヨークファッション工科大学にてジュエリー・デザイン・コースを修めている。これらの学歴から想像がつくとおり、多彩な興味の持ち主のようで、プロフィールには実業家、ファッションデザイナーの他に、歌手とも記載がある。実際に、父である大統領が彼女を呼ぶニックネームであるという「GooGoosha」の名前で歌手活動を行う。この冊子を見る限り、グリナラ・カリモヴァ氏はファッション・リーダーのような形でウズベキスタンの芸術文化を世界に発信しているようだが、ニューヨーク国連本部へのウズベキスタン派遣団の顧問(1998, 2000-2003)、在モスクワ・ウズベク大使館の1等書記官(2003-2005)、外務大臣顧問(2005-2008)、副外務大臣(文化・人道援助における国際協力の分野担当、2008〜)、国連とジュネーブに国際組織における常設ウズベキスタン代表(2008〜)、在スペインウズベク大使(2010〜)と公職を歴任する一方で、スイスの長者番付の常連となる程の資産を有するという。彼女の記事に付随する「million」「billion」という単位が「sum」でないことは説明不要であろう。


ウズベキスタンとの関わり

 外務省の公開情報によれば、ウズベキスタンの主要交易国は、ロシア、中国、韓国、中央アジア諸国であり、日本との貿易関係17)は希薄であるが、日本の対ウズベキスタン援助実績は群を抜いてトップを記録する18)。経済協力として、資金協力、技術協力などが挙げられていることからして、人材協力が小さくないことは確かだろう。実際、今回滞在中にはシニア海外ボランティアとして国立タシケント経済大学にて教鞭を執る先生とお会いする機会もあった。先生は企業で培った実践的なビジネススキルを学生たちに教えることがタスクであるとし、熱心な学生に恵まれているようだったが、日本の大学生と同様、どこでそれを生かしていくかということが次の課題であるようだ。











(写真は、バレエやオペラが上演されるナヴォイ劇場。正面玄関の前には公園があり、その中心にある噴水は夜になると音楽と照明による噴水ショーが行われる。観光客のみならず、地元の方の憩いの場となっている様子である。)

 過去にさかのぼると、旧ソ連によって戦後60万人の日本人が抑留され強制労働についたという歴史がある。彼らが過酷な労働条件下で道路、工場、運河、炭鉱、発電所などの建設に従事していた姿は、今なお年配の方々の記憶に残るようで、滞在中お会いしたアリシェル・ナヴォイーの研究家の方も幼い頃の思い出として、涙ながらにお話しくださった。先生は現在、原子力の脅威に晒される福島の人たちのためにとウズベキスタンの詩人たちによる詩集を編纂されているそうだ。この詩集は第2号にあたり、第1号は広島・長崎の原爆被害者に向けて製作されたそうである。話がそれてしまったが、日本人が手がけた建築物の中でも、中央アジア最大と呼ばれるナヴォイー劇は有名で、1966年に起こった大震災にも壊れることなく、その無傷で生き残った姿と日本人の勤勉な姿が重ねられ、日本人への好意と尊敬の念が日本人墓地整備に結びついたそうである。残念ながら、現在この劇場は改築中で、中には入れなかったのだが、いつかもう1度訪れてみたい場所である。外務省の公開情報によれば、この劇場の視聴覚照明機材、音響、照明及び視聴覚機材整備に8千万円もの援助がされてきたようである。この金額が劇場の規模に相応しい十分な援助であったのかどうかは判断しかねるが、ウズベキスタンの文化領域に日本が少なからず貢献できているのは喜ばしいことである。

 最初はハード面の援助というのが急務であったのに対して、これからの関わりにはソフト面が重要になってくることは確実であろう。今回、滞在中にウズベキスタン国立音楽院で民族歌謡を教える教授を訪ねたのだが、この大学は東京芸術大学と姉妹校提携を結んでおり、当時、楽理科の教授を務められていた柘植先生(音楽学者・民族音楽)を中心に演奏家の交流がもたれている。その他、福島県とウズベキスタンの文化経済交流も歴史が古く、交流20周年を記念する演奏会が両国で1999年に行われたそうである。その他、ウズベキスタンの民族工芸家が日本の工房で研修する機会を得ているようだ。これに関しては、伺ってきた情報を基に追跡調査が必要であるが、伝統(民族)音楽に関してもこのような交流が可能であるのではないか、と期待を抱く。

 ウズベキスタンの音楽事情については、改めて報告するが、民族音楽ばかりに目が向きがちであるものの、ソヴィエト時代、ショスタコービッチをはじめとするソ連の音楽家がウズベキスタンと深いつながりをもっており、ペレストロイカによって近代音楽が流入し、西洋クラシック音楽と全く異なる発展を遂げたウズベク民族音楽に敬意を払い、真剣に研究19)することによって大きく飛躍を遂げてきた、というクラシック音楽史もこの国の音楽を学ぶ上で大変重要なファクターである。これはVictor Medyulyanov氏の生き生きとした記憶に基づくお話からも伺い知ることができ、そのようなソ連の姿勢が音楽院のカリキュラムにも大いに反映されていることは納得のいくところであった。これは、共同研究の相手であるPolina Medyulyanovaの音楽家としての姿勢にも大きな影響を与えているものであり、次の機会に紹介させて頂くことにする。


ウズベキスタンで不思議に感じたこと

 ここまで、滞在中の体験と一般的な情報を基にウズベキスタンについての紹介をしてきたが、最後に不思議に感じたことをメモとして残しておきたいと思う。













(写真右のように、どの公園も美しく手入れされている。写真下は、タシケント市内で撮影したものだが、樹木の根元は全て白く塗られている。)




 少々グレーな話題も書いてきてしまったが、ウズベキスタンの高く済んだ空と、キレイに整備、管理された緑は、とても印象的で、国費で手入れがされているという。公園(緑)の管理に従事する人の多さにも驚くが、気になったのはあらゆる街路樹の根元(1メートルぐらいの高さまで)が白く塗られていることである。現地の知人に訪ねると白アリ対策だと言うのだが、サマルカンドで目撃した塗色の様子からはペンキにしか見えず、道路脇に立っている電柱までも樹木と同様に白く塗られているのである。郊外を車で移動した際には、街灯の少ない夜道の反射鏡代わりになるのかとも思ったが、どこの街で目にする木も同様に塗色されており、不思議に思わない現地の人にこそ疑問を感じた。

 現在、どの国を訪ねても「China Town」が存在し、海外においてあまり強い結束力をもたない日本人にとっては、口懐かしい料理や食材が得られる場所として大変に重要な拠点となる。またニューヨークなどでは、現地語をしゃべらずとも生活する中国人の大陸的たくましさに感心することも多いのであるが、ウズベキスタンで3週間過ごす間、観光地にて中国人もしくは台湾人の団体に2回程遭遇したきりで、ほとんど街中で中国人らしき人に会う事がなかった。また、それに関連して、アメリカでもヨーロッパでも我々日本人は「中国人か?」と聞かれるが、ウズベキスタンでは「韓国人か?」とまず聞かれ、日本人だと答えると大変珍しがられた。自分自身も滞在期間中、観光地で遭遇した1,2団体の日本人以外、全く日本人に会うことがなかった。ウズベキスタンには2012年1月現在137人の日本人が生活するというのであるから、数日間の滞在中に日本人に遭遇しないのは当然であるが、世界を旅してこれほど中国人に会わないのは初めてのことであった。現地の方に訪ねると、郊外の工場に勤務する中国人は多いとの話であったが、それにしてもと思うのである。




(写真左は、住戸毎にそれぞれの窓枠をもつ集団住宅の様子。
写真上は、旧市街の住戸の様子。)



 最後にこれまた印象的であったのは、ウズベキスタンの平均年齢の驚くべき若さである。訪問前に年代別人口比のグラフを目にした記憶があるものの、どこに掲載されていたのか思い出せず、ここはweb上のデータに頼ってしまうが、Central Intelligence Agencyによる「THE WORLD FACTBOOK」データによると、平均寿命は72.77歳(2012)、年齢別人口比率は0~14歳:26.5%、15~64歳:68.8%、65歳以上:4.7% (2011)20)だという。ウズベキスタンの同年代の方がとても志をもって自分の夢を語る姿、そして現状に甘んじることなくその先を見据えて勉強に取り組む姿は大変印象的で、強く自分に訴えるものがあった。これを上記の数字と結びつけてしまうのは安直かもしれないが、我々の世代の人間がこれからの国をつくっていく、という意識が直接的に実感される環境におかれている、というのは大きな違いなのではないか、と思われた。向上心あふれる彼らと交流をもつことで、自分もまた日本の学生たちにも新たな刺激が得られることは間違いない。シルクロードで繋がっていたこの国と新たな交流の道が開けることを期待する。


2012.5.31




注:
1)CD『World Sun Songs』ブックレットに掲載されたMaris Sirmais氏の文章より「We […] asked each of the composers to write a five-minute-long opus in which the theme of the sun weaves through the prism of his or her national folklore.」の部分的翻訳
2)総務省 統計局ホームページに掲載される平成22年10月1日現在の数値
3)2011年国連人口基金
4)総務省 統計局ホームページに掲載される平成22年国勢調査に基づく数値(128,057,000人)。
5)福島青史「多言語使用者の言語選択とアイデンティティ― 多言語状況の「複言語主義」的記述から」を参照
6)http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/data.html
7)須田将『ウズベキスタン民主化の経緯』イスラーム地域研究「中東・イスラーム諸国の民主化」に掲載される「カリモフ政権の確立と長期化」を参照
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/uzbekistan/democratization.html

8)UNESCOPRESS On-line 「uzbekistan President Karimov Visits Unesco, Addresses Executive Board 」Paris, 23 April [No. 96-79]より
(http://www.unesco.org/bpi/eng/unescopress/96-79e.htm)

9)The Governmental portal of the Republic of Uzbekistan (G2F) Tourism項目内
(http://www.gov.uz/en/foreign/tourism)

10) Uzbektourismとはウズベキスタン観光省を指し、各国の旅行代理店と政府観光局の代理事務所開設の契約を締結し、観光客誘致を促すものである。
11) ダイヤモンド社/ダイヤモンド・ビッグ社『地球の歩き方』中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々 '11~'12
12) ティムール・ダダバエフ『社会主義後のウズベキスタン-変わる国と揺れる人々の心』(アジア経済研究所, 2008)
13)「Uzbek Taxi Registration Angers Drivers」(Report News, March 28, 2012) produced by News Briefing Central Asia output funded by the national Endowment for Democracy.
(http://iwpr.net/report-news/uzbek-taxi-registration-angers-drivers)

14)JETRO日本貿易振興機構 Webサイト内「タシケントにおける消費物資価格、各種サービス価格、対ドル交換レートの推移」(2012年4月分)2012年5月更新を参照
http://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/

15)2010年ウズベキスタン国家統計委員会による物価上昇率は、7.3%
16) Ferghana. News Information agency「Uzbekistan: President Isram Karimov promised 500 USD salary for population」(Central Asia news)
http://enews.fergananews.com/news.php?id=1835

17)2011年財務省貿易統計によると、日本からの輸出は自動車やゴム製品など189.7億円にのぼり、金や綿花などの輸入は38.5億円にのぼる。
18)2006年はアメリカ、2009年はドイツが首位であったのを除き、日本が首位を占める。主要援助国は、アメリカ、ドイツのほか、スイス、フランスなどが挙げられる。
19)加藤周一『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行 ― 社会主義の三つの顔』(岩波新書, 1959)
20)Central Intelligence Agency 「The World Factbook」https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uz.html



参考文献:
岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』講談社, 2007
加藤周一『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行 ― 社会主義の三つの顔』岩波書店, 1959
胡口靖夫『シルクロードの〈青の都〉に暮らす ― サマルカンド随想録』同時代社, 2009
須田将『スターリン期 ウズベキスタンのジェンダー ― 女性の覆いと差異化の政治』風響社, 2011
ダダバエフ、ティムール『社会主義後のウズベキスタン ― 変わる国と揺れる人々の心』アジア経済研究所, 2008
堀江則雄『ユーラシア胎動 –ロシア・中国・中央アジア』岩波書店, 2010
矢嶋和江『シルクロードの中継点 ウズベキスタン滞在記』早稲田出版, 2009
『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々〈地球の歩き方 '11~'12〉』  ダイヤモンド社/ダイヤモンド・ビッグ社, 2011

福島青史(2009)「多言語使用者の言語選択とアイデンティティ ― 多言語状況の「複言語主義」的記述から」『ヨーロッパ日本語教育』13.

『中東・イスラーム諸国の民主化』2011年3月1日最終更新
須田将「ウズベキスタン民主化の経緯 ― カリモフ政権の確立と長期化」
<http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/uzbekistan/democratization.html>(2012/5/30アクセス)
『Ferghana. News Information agency』2010年9月1日「Uzbekistan: President Isram Karimov promised 500 USD salary for population」〈Central Asia news〉
『News Briefing Central Asia』2012年3月28日 「Uzbek Taxi Registration Angers Drivers」〈Report News〉






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