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踊る、歌う、演奏する身体を映像で記録する――音楽と身体の人類学へ向けて(4)
音楽やダンスといった「パフォーミング・アーツ」を主な調査対象とする人類学者は、世界中を見渡してもそれほどいないと思います。あまり根拠のない予想なのですが、広く「芸術」と呼びうる人間の営みのなかでも、たとえば造形芸術などと比べて、音楽パフォーマンスを研究する人類学者の割合は世界的にもずっと少ないでしょう。その理由は、「開発人類学」や「医療人類学」のように現実的な応用が少しでも期待できそうな可能性に乏しいことや、同じ理由で社会的需要がないという実利的ものもあるでしょう。私たちの生きている現代日本社会が、結局のところ、音楽にあまり大した意義を見出していないという、もっと根深い理由もあるかもしれません。
ですが、私はもっと単純な理由もあると思っていて、実際のところそれが最大のものだと思います――音楽やダンスのパフォーマンスというのは、専門化の進んだ音楽文化であれ、当該社会のメンバーの多くが参加できるタイプの音楽文化であれ、当のパフォーマンスが進行する場面を記述しようにも、それだけで困難を極めるからです。文化人類学者の仕事の大半は、現地の人びとのもののやり方を記述することです。なので、どうやって言葉で表現してよいかわからないものは、少しくらい興味があってもなかなか手を出せない、音楽などというものは社会に絶対必要なものでもないのだから、わざわざ苦労して研究することなんてない、というのが実情なのではないでしょうか。
その証拠に、採譜という方法論が確立している民族音楽学では音楽の研究は進んでいるわけですし、人類学者でも現地の歌の歌詞を分析するという手法は比較的よく目にします(歌詞は言葉になっているので、とりあえず記述すれば読み手に自分が何を研究して集めたのか、わかってもらえるというわけです)。しかし、その場で鳴り響いたかと思えばすぐに消えてしまう音、声質、人々の身体の動作、ダンス、表情、個人間のやり取りなどが同時に進行するパフォーマンスの「現場」をどうやって言葉にしたらよいか、実のところ人類学者もまったくといってよいほどわかっていない、というのが実情なのです。
しかし、だからといって音楽と身体の人類学的研究に意義がないというわけではありません。それどころか、音楽パフォーマンスの研究は人類学一般にも大事な意義をもちうるとも考えられるのです。なぜなら、人類学というのは、フィールドワークという全身的で全人格的な経験から何ごとかの問題を発見して、それを何とか言葉にし、思考しようとする営みですが、最初にフィールドワーカーが感受するのは、輪郭のはっきりした問題ではありません。最初は「かたちのない」ものとして存在するありとあらゆるイメージを、なんとか「かたち」にして問題にしようと格闘することこそ、人類学の核心にある営みなのです1)。その意味では、音楽パフォーマンスの言語化を試みることは、人類学者が普通にやっていること(といっても、それは簡単なことではありませんが)と、原理的にはそれほど違わないのだと思います。逆のいい方をすると、もし私たちが、ここでいっている「音楽と身体の人類学」を上手く構築することができれば、それは人類学全体にとっても大きな貢献となりうる、ということです。
その「かたちのない」イメージをも捉えようとする試みとして、近年注目を集めている「映像人類学」の試みは、音楽と身体の人類学的研究にとっても、広く人類学一般の営みにとっても、新しい風穴をあける可能性があると思います2)。実際、音楽やサウンドの質だけでなく、歌い踊る人びと動作や表情、人びとのあいだのミクロなやりとりを記録するには、映像以上に効果的な方法はないでしょう。映像人類学の分野ででも、以前から音楽パフォーマンスや宗教儀礼を撮影する重要性が指摘されてきましたし3)、有名なところでは、アラン・ロマックスによる世界中のダンスの比較研究という壮大な試みがありました4)。
もちろん、なんでも映像で記録しておけば良いのだ、という簡単なものではありません。先日、身体を含む表現文化の記述の方法論についてあるアメリカの民族音楽学者と議論をしたのですが、その人は「最近のシカゴ大学出版の(民族音楽学の)研究書にはほとんど音楽CDが付いてくるのだから、君の研究成果も映像DVDと一緒に公表すればいいよ」と、いかにも簡単そうに言いました。私はといえば彼ほどには楽観論ではなく、やはり、音楽パフォーマンスの研究では、研究者は細心の注意を払って音と身体の記録を言葉(文字)で記述する努力を怠るべきではないと考えています。大事なのは、常に言葉の限界を知っておくということだと思います。文字記録と映像記録の両方の限界をわかったうえで、相互に補完的な関係をもたせることが理想でしょう。何よりも、今は機材が軽くて扱いも簡単なので、音楽パフォーマンスのことに関心のある研究者はどんどん映像記録を残すべきだという考えには、私も大賛成です。映像人類学が注目を集めているのを契機に、一人でも多くの人類学者が音楽パフォーマンスやダンスの研究に取り組めば良いと思います。
私自身はといえば、大学院生になって修士論文のための調査を始めた約10年前から、記録のためにビデオをしばしば使用してきました。当初調査していた東京のゴスペル歌唱グループで私が関心をもったのは、「本格的」という評判をもつグループの(歌唱力とは少し違うニュアンスの)「どことなしに感じられる迫力」です。そのありかが、参加者個々人の能動性にあるのではないかと直感したので、リハーサル風景をビデオにとって分析してみたのです。そうすることで、ミクロの対面相互行為(身体的な同調過程)から、一人ひとりの歌い手が「思いっきり歌うこと」に向かって解き放たれていく様子が良く記録できました5)。これなどは、短い調査・分析期間で効率よく成果を出せたケースだったと思います。
博士後期課程に進学して、アメリカの黒人教会をフィールドにしてからも、礼拝儀礼のビデオ撮影は私にとってごく普通の調査方法のひとつでしたが、ここでちょっとした問題に出くわしました。私の撮影スタンスは、常に自分自身の記録用だったので、「とにかく注意を惹かれたところにカメラを向ける」というものでした。しかし、礼拝儀礼では、常にどこか一つのところに注目すべき焦点が集まっているわけではありません。私の後ろの方に座っている人が聖霊ダンスを始めたかと思えば、礼拝堂の前方の端にいるミュージシャンがそれに呼応するように演奏を始め、牧師もそれを是認するようなしぐさをする――こうした光景を一人の人間が一つのビデオで撮ろうと思うと、カメラをあちらこちらに向けなければなりませんし、ズームインしたりズームアウトしたりで、後で画面を見ていると、車酔いしそうになるほどです。しかも、事例として面白ければ面白いほど、同時に複数の場所で色んなことが起こる傾向があります。どうも私の撮り方では、自分の分析には良くても、人様に見せるにはクオリティが低すぎた、というわけです。学会発表は、映像を口頭発表に織り交ぜることができますから、映像記録が活躍する良い機会です。しかし私の場合、元の記録が「車酔い動画」なので、実際は十何時と撮りためたテープがあるのに短く効果的なクリップとして具合の良いものがなかったり、映像自体としてはややつまらなかったり、という問題を抱えてしまいました。
そうした反省があったので、次にビデオを撮るときには、もう少し見栄えの良いものを撮っておいて、学会発表で活躍させたり短い映像作品を作れたら良いな、としばらく前から漠然と考えていたのでした。なので、今回5年ぶりに長期調査が出来たのは良かったと思います。幸い、調査地のセントルイスでは、以前からつき合いのあった教会が快く撮影許可を出してくれました。ここは信者の数がせいぜい50人くらいということもあって、信者のほぼ全員が私のやっていることをわかってくれていたのも助けになったと思います。これまで、のべ1ヶ月半ほどにわたって、かなり集中的に映像記録を集めました。合計で何十時間かはわかりませんが、100枚入るCDウォレットがほぼいっぱいになっています。
実際に撮影を始めてみると、思わぬ発見がいくつもありました。まずは、6年前の調査では使っていなかった「三脚」の効果です。私は腱鞘炎持ちで、いかにホームユースのビデオカメラといっても、ずっと持っていると右手首が痛み出すので、今回はこの三脚を存分に活用してやろう、安定しているからズームも思う存分使えるだろう、と楽観していたのですが、撮影を始めた初回に、この方法はまずいということがわかりました。少しでも離れた所から三脚を立てて撮ると、どうにも画が退屈になるのです。今回は個人用の記録以上の魅力ある画を撮りたかったので、すぐに方針を見なおしたのですが、かといって、信者の人びとに近寄っていくのはなかなか勇気が要ります。しかも、ただ一瞬近づくだけではダメで、今度はなるべく映したい人にじっくりと寄り続けていなければなりません。結局、思っていたものに近い画が撮れるだけ十分に被写体に近づくことができるようになったのは、何度目かのチャレンジの後でした。(私にとっては意外なことに、信者の人びとの方は私の予想していたのよりもずっと平気な顔で画面に映っていました。)手持ちで撮影することが多くなったので、カメラの画面を見ながら礼拝堂のあちこちを動き回って撮影中に足を踏み外したりすることも多く、見ていて酔いそうになる場面は結局最後までなくなりませんでしたが。
さて、いったん映像を撮り始めると、今度は「次はこんな画が撮りたい」という欲が色々出てきます。ですが、礼拝儀礼で場面が次々に展開する雰囲気に巻き込まれていると、考えていた画角を得るための正確な位置取りができないこともしばしばです。そこで私がとった方法は(誰でもやっているのかもしれませんが)、フィールドノートに簡単なスケッチを書いて、礼拝のどの場面にいれば思い通りの図角が得られるかを書きこみ、礼拝儀礼の最中も常にそれを見ながら撮影する、というものでした。私はあまり計画的な行動をする方ではないのですが、このやり方で効率よく思った通りの撮影が出来たと思います。
映像の撮影では、どうしても避けられない問題もあります。私がお世話になった教会の場合、スピーカーの位置と方向がそうでした。この教会は、黒人ペンテコステ派教会の例にもれず、かなりの大音量のスピーカーを備えているのですが、それらのほとんどが会衆の方を向いているので、牧師やミニスターなど、礼拝をリードする人にぐっと近づくと、音が非常に遠くなってしまうのです。実際にどんなふうに音声がキャッチ出来ているかは再生してみるまでなかなか分からないので、一度、説教壇にずっと近づいたままでカメラを回していたら、音がほとんど聞こえていなかったという失敗もありました。そういう時に限って、映像としては見ごたえがあったりするので、これには何度かがっかりさせられました。
(スチルカメラの撮影を頼んだ信者が偶然私の姿も一緒に撮影していました。)
今回撮影した映像記録は、すでにいくつかの場面で使用しています。最初の出番は、3月の末にミルウォーキーで行われた米国民族音楽学会中西部支部の年次大会です。6年前に撮影したものの方が動画クリップの選択は楽だったのですが、せっかくだったのでいくつか選んで、それに合わせて発表しました。評判は上々で、発表後も発表内容や映像についての質問をいくつかもらいました(むしろ、他の発表であまり映像が使われていなかった方が、私にとっては意外でした)。次の出番は、セントルイス・コミュニティカレッジの音楽の授業でゲスト講師として招かれた時でした。20分程度の学会発表であれば原稿を準備すればよいですが、1時間超のレクチャーとなると、聞き手の反応を見ながら話すことになりますし、原稿に頼るというわけにもいきません。かといって、英語であれこれ説明しっぱなしなのもつらい、というわけで、この時も多いに映像クリップに活躍してもらいました。この時はスクリーンが使えなかったのが残念でしたが、やはり映像が訴えかける力は大変なもので、学生さんたちもとても熱心にレクチャーを聞いてくれました。
映像記録の利用は、他にもあります。お世話になっている教会信者の方々に配るのです。特に、説教をした時のDVDや、歌っているところのDVDなどを本人にあげるととても喜ばれます。また、礼拝儀礼の様子を一部の特に仲よくしている信者の家で一度上映してみたこともあります。撮影された場面について質問をしたかったこともありますが、信者の人びとに撮影内容をフィードバックすることで、何か面白い反応がないかということも期待していました。ところが彼らの反応は私の予想をはるかに上回るものでした。礼拝儀礼で感極まって泣き叫んだり、走りまわったり、聖霊ダンスをしたりという映像を見たかれらは、お腹を抱えて笑い転げていたのです。これには私もその場で心底驚きました。しかも、翌週の礼拝に顔を出すと、ビデオを見た人たちが別の信者にも「あんたが映ってる面白い場面があった」などと言いふらしているではありませんか。――ところで、こういうエピソードは、人類学者にとってはむしろ大歓迎です。普段は見えない彼らのものの感じ方が浮き彫りになるからです。これは映像を使った調査の貴重な副産物になりました。
撮影ばかりに時間を使うわけにもいかないので、アメリカ調査での撮影はほぼ終わらせました。目標としていた映像作品に十分な素材がそろったか、実際のところはよくわかりません。撮っている最中は、教会ミュージシャンに関するものと、一つの教会に的を絞ったものの、二つが出来ればいいと思っていました。ただし、撮影とは違って編集作業では技術的なことも勉強する必要がありますし、時間もかなりかかると思います。後者の計画は、お世話になっている教会でアナウンスしました。かれらはしきりに「映画はいつできるんだ?」と訊いてくるので、ひとまずはかれらの期待をモチベーションにして、とりかかることになると思います。ただ、本格的な民族誌映画の制作では、実際にあら編集してみないと足りない部分などがわからないものだそうなので6)、完成出来なかった時の言い訳も考えておく必要がありそうです。
最後に機材ついてふれておきます。ビデオカメラは少し良いものを購入しましたが、それでもホームユースのものです。この種のテクノロジーは日進月歩なのか、手ぶれの補正や暗部の撮影にも以前よりも良くなった印象がありますし、格段に軽くて扱いやすいです。また、ソフト面も進歩しています。6年前はたくさんDVテープを購入しなければならず、テレビの画面でじっくりとそれを見るのは日本に帰って来てからだったというちょっとした不便があったのですが、近年のビデオカメラは記録媒体がメモリーになったおかげでパソコン管理が簡単になり、どんな映像が撮れたかすぐにわかるようになりました。マイクも購入したのですが、ダイナミックレンジがビデオの内蔵マイクの方が大きいらしいことがわかったので、特定の方向から音声が欲しい時(インタビューなど)だけ使用しています。
注
1)箭内匡「イメージの人類学のための理論的素描:民族誌映画を通じての『科学』と『芸術』」『文化人類学』73(2):180-199、2008年。
2)北村皆雄・新井一寛・川瀬慈(編)『見る、撮る、魅せるアジア・アフリカ!――映像人類学の新地平』新宿書房、2006年;新井一寛・岩谷彩子・葛西賢太(編)『映像に宿る宗教、宗教を映す映像』せりか書房、2011年など
3)大森康宏「民族誌映画の撮影方法に関する試論」『国立民族学博物館研究報告』9巻2号、449頁、1984年
4)Alan Lomax, "Audiovisual Tools for the Analysis of Culture Style," in Principles of Visual Anthropology (2nd ed.), pp.315-334, Mouton de Gruyter, 1995(1975)
5)野澤豊一.「コミュニケーション過程としてのグルーヴ――日本のゴスペル歌唱グループの事例から」『ポピュラー音楽研究』vol.13,pp.17-30.2009年。
6)大森康宏「民族誌映画の編集にかかわる試論」『国立民族学博物館研究報告』9巻3号、pp.571-592、1984年。