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西インド石窟群の3次元実測
図3.ベドゥサー石窟チャイティヤ窟正面廊後壁
インドの石窟の最大の特徴のひとつに、自然にできた洞窟を利用したものがほとんどなく、人工的に造られたものだということが挙げられます。宗教的にも主に仏教が中心として広まり、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院に展開していきます。厳密に言うと最古の石窟は紀元前3世紀半ばと考えられる、ビハール州バラーバル丘のローマス・リシ窟(アージーヴィカ教)ですが、その後、仏教さらにヒンドゥー教、ジャイナ教に引き継がれます。
仏教石窟は、最初は教団の修行施設として造られたものですが、通常石窟単体で造営されることは希で、礼拝のための祠堂窟(チャイティヤ窟)と僧侶の住居としての僧坊窟(ヴィハーラ窟)が組み合わされて石窟群を形成しています。2つから3つの石窟で1つの石窟群を形成する場合から50を超える石窟で形成する場合があります。
建築的には通常の平地に建てられた建築物の正面ファサードと内部空間を断崖の中に写したものということができます。石窟は7世紀頃まで造営されられていたと考えられていますが、建築学的に編年する際、造営された年代が不明確な石窟を考える視点として、木造建築的表現に忠実で、平面形が単純であるものがより古いという考え方が根強く残っています。
図1、2は紀元前1世紀頃と考えられているマハーラーシュトラ州のバージャー石窟チャイティヤ窟です。列柱は原形の木造建築を意識して内転びに刻み出され、天井には梁・桁・垂木にあたる部材が実際に木で造り付けられています。外観には木造建築に起源を持つチャイティヤ・アーチがファサードを飾り、石造では全く必要のない持ち送りが、石で彫り出されています。まさに岩の中に木造建築をつくり込んだ姿です。図3は、バージャーから東に数十キロ離れたベドゥサー石窟群のチャイティヤ窟ですが、上部の大きな開口部の枠の下に入口が設けられています。枠を支える柱などを用いるべきところに、枠を支えることのできない入口があるのです。もともと岩盤だったところを刳り抜いた石窟ならではの構造で、通常の建築では成り立ちません。このような構造は、バージャーのような木造の建築形態を断崖の中へ写したものから始まった石窟が次第に石造独特の建築的表現へと変化する流れとして想定されています。
次に、石窟の形態に大きな変化をもたらした仏像についてです。北インドのガンダーラもしくはマトゥラーを中心とする地域で、仏像が成立したと考えられている2世紀以降、石窟も本尊として仏像を安置することを念頭に建築的に変化しました。特にヴィハーラ窟での建築的変化が如実です。通常石窟の後壁中央に前室付きの仏殿を設け、そこに仏像を安置しますが、その前にある列柱を持った広間の柱の配列が、中央の仏殿の前だけ広くなっています。このため、石窟全体に中央軸線が生じ、全体の空間構成に大きな変化が起こりました。また仏伝図、本生図等の壁画や格天井の格縁の区画の間に描かれた天井画の構成も、崇拝対象である仏像に対する儀式空間を意識したものへと変化しました。ヴィハーラ窟が、修行僧の居住空間から仏殿と拝殿を持つ寺院空間へと大きく変わったといえます。
変化する以前の2~3世紀以前のものを前期石窟、数百年の中断を経て5世紀以降のものを後期石窟として大別するのが慣例となっています。実際には碑文などを用いた検証によって明らかになるところが大きいのですが、前期と後期の間に断絶があるのは間違いないようです。 また石窟群に関しては、チャイティヤ窟とヴィハーラ窟の様々な組み合わせがありますが、同時期に単一の計画に則って造営された石窟群はほとんどなく、同時代の場合でも複数の施主がそれぞれの石窟の造営に関わっていたり、数十年、数百年の時間を隔てて造営されていたりしたものと考えられています。
最後に今回の3次元実測調査の目的についてです。従来の研究では、石窟内に残された碑文からその年代を特定し、そこに施された主に建築的な彫刻意匠、彫像の図像的解釈とその裏付けとなる文献との整合性から、彫像の形態的、図像的展開を見ることなどが主眼でした。建築的には、柱や扉口に見られる装飾的展開の研究、建築空間の発展などについての研究が進められています。
建築空間の発展を考える上で、平面形状、断面形状は欠かせない情報です。従来は石窟群の中での石窟単体の平面的展開などを異なる石窟群で比較検討することなどがなされていました。
ひとつ例を挙げると、前述の仏像を本尊として石窟に導入する際の建築平面の変化です。ヴィハーラ窟に礼拝の対象であるストゥーパ、さらに仏像を備えた祠堂を造りだし、石窟全体の形態、さらに意味まで変化させました。これは後述するアジャンターで展開したと考えられています。ヴィハーラ窟の奥壁中央にストゥーパをまつる祠堂を造る石窟が現れます。これに刺激されて周囲のヴィハーラ窟が次々と祠堂を造り始めます。ある石窟が、仏像を造りだし、その影響がヴィハーラ窟のみならずチャイティヤ窟にまで及んでいきます。
私が着目しているのは石窟相互の関係です。混み合った石窟群では、石窟それぞれの都合に合わせて内部空間を広げようとしますが、実際には隣り合う石窟それぞれが間の隙間を融通し合って折り合いを付けながら行われていました。この折り合いのつけた痕跡がそのまま残っています。
石窟には、通常の建築とは異なる存在上の特徴があります。岩壁を穿って空間を造る石窟は、失敗ができないのです。失敗したところは全てその痕跡が残ります。取り替えのきかない材料を用いた彫刻のような感覚で建築空間を構築するのです。
これが今回の調査のテーマで、石窟単体ではなく、隣り合う石窟同士の関係を把握することに主眼を置きました。石窟単体での石窟の発展形についての研究に加えて、石窟群の中での石窟相互の関連性を明らかにすることにより、石窟群の中での石窟の発展を検討する下地を提供することを考えました。同時期の石窟相互の関連性では、どちらが先に作られてそのために近隣の石窟とどのような調整がなされたか、数十年または数百年の時を隔てて造られた石窟ではどうだったのでしょうか。
今回実際に調査を行ったのは、いずれもマハーラーシュトラ州のベドゥサー、クダー、アジャンターの3つの石窟群です。
ベドゥサーは、西暦1世紀頃に開窟されたと考えられている石窟群で、貯水槽などの小さいものを含めると15の石窟群からなります(図4)。東に面した斜面に開窟された石窟は、南から順番に番号をつけられていますが、この中で大規模なものは、第7窟のチャイティヤ窟と第11窟のヴィハーラ窟です。チャイティヤ窟は正面廊の建築モチーフの浮き彫り彫刻と柱上のミトゥナ像が有名です。調査では、正面廊に大きく穿たれたチャイティヤ窓とその方立ての下の開口部、正面廊奥壁の厚さの違いなど、以前から指摘されていた重要なポイントのいくつかを実測しました。ヴィハーラ窟は、インドで唯一、馬蹄形平面をもつヴィハーラ窟です。正面の外壁は木造で取り付けられていたため、正面が朽ち果てた現在は前面が全て解放されています(図5)。
図7.ベドゥサー石窟チャイティヤ窟前調査風景 |
アジャンター石窟群は、石窟群の中央に位置する前期石窟(第9、10、12、13窟)と、その両側に開窟された後期石窟で構成されています。前期石窟は紀元前後、後期石窟は第16窟に残る銘文から5世紀後半に開窟されたものと考えられています(図11,12)。後期石窟のいくつかには当初の壁画が残り、5世紀後半の絵画資料としては世界唯一で、法隆寺金堂壁画との類似性が指摘されている守門神像のある第1窟ヴィハーラ窟など、インド仏教美術の宝庫なのでご存じの方も多いと思います。今回調査したのは、壁画のあまりない西側の21窟から27窟までです。これも石窟相互の関係から非常に興味深い石窟群です。隣り合う石窟が入り組んでいて、僧坊を開窟する場所を取り合っているような所もあります。
図14. アジャンター第21窟から24窟平面実測データ |
26窟はもう少し複雑です。正面廊僧坊に注目してみると、僧坊のない石窟(26RW)、前室のついた僧坊のある石窟(26窟、26LW、27窟)があります。僧坊前室の奥に僧坊を設けるのが一般的ですが、26窟はそうなってはいません。何らかの事情を想定するべきですが、その詳述は機会を改めます。ここでは、非常に混み合ったところに、それぞれの石窟がそれぞれの計画に従って開窟を進めた結果、内部空間の拡張にともない、お互いに融通しなければ開窟事業そのものが成り立たなくなる可能性がでてきたことが想定されます。
妥協によって様々な正面廊僧坊の形態が残るようになったと考えられます。この妥協の結果が石窟という特異な建築形態に保存され、石窟の独自性とともに現在まで伝わっています。それを立体的に実測し、その他の要素も加えて石窟群の開窟順序などを考察する上での基礎的データを提供できればよいと考えています。