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遺跡のテント博物館:ワディ・シャルマ1号遺跡(サウジアラビア)で試みたささやかな文化遺産学
藤井 純夫
アラビア半島の遊牧化過程を追跡するため、2012年の冬から、サウジアラビア北西部で遺跡調査を続けています。これまでに、ワディ・グバイ(Wadi Ghubai)、ワディ・モホラック(Wadi Mohorak)、ワディ・シャルマ(Wadi Sharma)などの遺跡群を、発掘してきました。今回紹介するのは、ワディ・シャルマ1号遺跡の調査です。ただし強調したいのは、調査そのものよりも、調査に伴う文化遺産学的活動の方です。昨年12月の第4次発掘調査では、テントによるミニ博物館を遺跡の傍らに設けて出土遺物を展示。解説パネルも吊して、見学者の便に供しました。ささやかな試みですが思いのほかに好評で、文化遺産学の手応えを感じました。以下、遺跡の概要と併せて、簡単に紹介します。
ワディ・シャルマ1号遺跡
ワディ・シャルマ1号遺跡は、サウジアラビを構成する13の州の一つ、アタブーク州の西端、紅海にほど近い渓谷地帯に位置する新石器時代の小型集落遺跡です(図1)。2013年の9月に測量し、同年12月に発掘を開始、2015年12月の第4次調査をもって発掘を終了しました。谷間にあるためか、毎日のように砂嵐が吹いて、作業は難渋しました(図2)。
この遺跡は、西アジアでコムギ・オオムギの栽培化やヒツジ・ヤギの家畜化、つまり農耕牧畜生活が始まってから数百年後の、先土器新石器文化B後期前半(紀元前7400〜7100年頃)に位置付けられます。調査は、緩丘陵の尾根筋に沿って設けた3つの発掘区で実施しました(図3)。遺跡北端の第1発掘区では方形・矩形の地上式石積み遺構群が、遺跡中程の第2発掘区では円形・楕円形の地上式または半地下式の石積み遺構群が、遺跡南端の第3発掘区では同じく円形・楕円形の主として半地下式の石積み遺構群が、それぞれ検出されました(図4〜6)。いずれも互いに壁を接して、面積約0.1〜0.2ヘクタールほどの細長い小型密集集落を形成していました。遺跡規模が小さいこと、集落の随所に入り口封鎖の風習が認められることなどから、定住集落では無く、季節的に住まわれた集落と考えられます。
出土遺物は、フリント製の打製石器や砂岩製の石臼・擦り石類が中心で、この他に石製容器、砥石、矢柄研磨機、貝製装身具などが含まれていました(図7)。遺物の内容・型式から見て、野生動物の狩猟とコムギ・オオムギなどの栽培農耕が、集落の生業であったと考えられます。出土動物骨の分析はまだ実施できていませんが、おそらくはヤギ・ヒツジなどの家畜飼養も行われていたと思われます。
図7 ワディ・シャルマ1号遺跡の出土遺物(テントの解説パネルから) |
この遺跡は、アラビア半島で初めて本格的に調査された先土器新石器文化Bの集落遺跡です。発掘調査の意義は、シリアやヨルダンなど、西アジア北半の丘陵・平原地帯で始まった農耕牧畜生活がアラビア半島に拡大していく過程を始めて明確に捉えた点にあります。こうした小型の季節的集落から徐々に遊牧が派生したのでしょう。遊牧化の起点を捉えたという点も重要で、これまでに調査した周辺の遺跡群と併せて、アラビア半島における遊牧化の経緯をたどることができるようになりました(Fujii 2016; Fujii, Adachi et al. 2016)。
遺跡の横のテント博物館
さて、ここから本題に入ります。第4次調査の前半、12月9日に、サウジ観光・国家遺産委員会総裁のスルタン王子(HRH Prince Sultan bin Salman bin Adul Aziz)、同副総裁のアリ・ガッバーン博士(Prof. and Dr. Ali I. al-Ghabban)らのご一行が、首都のリアドから専用ヘリコプターで遺跡に来訪することになりました。急な話で戸惑いましたが、何か一工夫をということで開設したのが、テントによるミニ博物館です。発掘で出土した石器、石臼、貝製装身具などを展示し、その解説パネルを作成して紐で吊しました(図8)。本当にささやかな展示ですが、調査の目的やこれまでの経緯、遺跡の年代・性格、出土遺物の内容などを、文字通り、手にとって理解していただくことができました。当日は、報道関係者は無論のこと、スルタン王子見たさの村人も殺到し、大変な騒ぎになりました(図9)。
筆者、スルタン王子)
その後で遺跡に入り、発掘現場の解説をしました(図10〜12)。王子はイギリス留学の経験があり、長身美形、英語もきわめて堪能です。無論、考古学の知識も豊富にお持ちで、放射性炭素年代についてかなり突っ込んだ質問があり、慌てました。ちなみに、アラブ諸国では概してイスラーム以前の遺跡に対する関心が低く、そのため先史時代の遺跡調査が少ないという事情があります。それだけに、私たちの調査には感謝したいとのことで、大いに面目を施しました。
なお、王子らの一行は、ポーランドのワルシャワ大学隊が実施しているワディ・アイヌーナ遺跡(古代名リューケ・コーメ)と、オーストリアのウィーン大学隊によるグレイヤ遺跡(古代名も同じ)の発掘現場(共にタブーク州)も、併せて訪問したとのことです。これまで海外の考古学研究機関に対して門戸を閉ざしてきたサウジアラビアですが、スルタン王子の代になってから徐々に開放が進み、現在では10隊近い外国調査団が活動しています。(それでも隣国のヨルダンやエジプトに比べれば十分の一ほどで、調査権を得るのは容易ではありません。)その一端を我が金沢大学隊が担っているわけで、それなりの自負と大きな責任を感じています。
一人置いて右側に長屋憲慶特任助教、足立拓朗准教授) |
サウジアラビアでの文化遺産学
サウジアラビアで私たちが行っている文化遺産学的活動は、実は、これだけではありません。足立拓朗准教授が日本学術振興会の「二国間交流事業(オープンパートナーシップ共同研究)」で実施した、発掘現場におけるサウジ若手研究者の育成事業も、その一つです(足立コラム1、コラム2、文化遺産国際協力コンソーシアムHP, 2015a, 2015b)。この事業は平成27年1月末をもって終了しましたが、同准教授は、新たに、(私たちが以前調査した)ワディ・グバイ5号遺跡3045号円塔墓の、タブーク国立博物館への移築展示なども計画しています。いずれもサウジ当局との共同事業で、これまで培ってきた信頼関係が基になっています。私自身もこれらの活動に関与し、文化遺産学の可能性について考えてきました。学問的調査はもちろん重要ですし、今後も最優先していくつもりですが、それと併行してこうした文化遺産学的活動にも力を注いでいきたいと思っています。
これに関連して、一つ付け加えておきたいことがあります。それは、サウジアラビア側の意識の変化です。スルタン王子が総裁を務める委員会は、以前は、「サウジ観光・古物委員会(SCTA: Saudi Committee of Tourism and Antiquities)」でした。それが、昨年になって、「サウジ観光・国家遺産委員会(SCTH: Saudi Committee of Tourism and National Heritage)」に改名されました。「古物」から「国家(あるいは国民)遺産」への改名です。組織名の変更は、建物の看板やHPは無論のこと、封筒や専用車のロゴにまで影響が及ぶので大変だった筈ですが、それでも断行したことに驚かされました。
その背後にあるのが、単なる古物趣味・遺跡愛好から、国家・国民のアイデンティティ形成の要としての文化遺産・文化資源への、基本的認識の変化です。文化遺産学の将来は、その延長上にあると言えるでしょう。無論、ここで言う国家・国民とは、いたずらな国家主義・民族主義とは異なるものです。それぞれの集団の文化や歴史に、本来あるべき誇りと責任を取り戻し、併せて多文化の共生を図ろうというのが、その本意であることは言うまでもありません。森を構成する一本一本の樹がしっかりと根を張ってこそ、森の美しさが保たれる。きっと、そういうことなのでしょう。この部分に文化遺産学は貢献できる、貢献しなければならない、わけです。過酷な調査と併行してどこまで出来るか分かりませんが、ミニ博物館くらいなら何と続けていける。そう考えています。
参考文献