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アルメニアで新プロジェクト、スタート

 アルメニアで新たなプロジェクトを始めました。
 日本学術振興会の「二国間交流事業」の支援を受け、今年の8月から2年間の予定です。プロジェクト名は、「コーカサスにおける先史時代遺跡の立地と景観に関する考古学研究」(代表・藤井純夫教授)。アルメニア考古・民族学研究所と共同で、先史時代遺跡の考古学調査を行います。
 「二国間交流事業」では、日本の研究者が相手国の研究者と協力して研究やセミナーを実施することが求められます。私は、この3月まで「頭脳循環プログラム」により、アルメニアの首都エレバンに長期派遣されていました。この滞在時に生まれた調査のアイデアが、今回の新プロジェクトの骨格になっています。また、この時にできた人脈が、プロジェクトを立ち上げる際に役に立ちました。特に、後で触れるアルメニア人の若手考古学者たちは、昨年の長期滞在の時に仲良くなったメンバーです。

写真1 円形遺構からなる青銅器時代の集落跡。集落は緩やかな斜面につくられ、背後に岩山が位置することが多い。


農耕牧畜の始まりとその伝播
 今回のプロジェクトでは、完新世初頭の遺跡を発見することに力を入れています。完新世初頭、つまり紀元前1万年~6000年の頃です。この時代は、コーカサスの先史時代研究では、その実態が不明という意味で、「暗黒時代」とも言えます。この「暗黒時代」を研究する目的は、単によく分からない時代だからではありません。この頃に、ユーラシア大陸の西側では、現代の私たちに暮らしに直結する大きな変化が起きたからです。それは農耕牧畜の始まりです。
 今からおよそ1万2千年前に、数万年続いた最終氷期が終わり、地球全体が今日に続く温暖期に入りました。これが完新世の始まりです。完新世に入り、西アジアなど一部の地域では人間社会に劇的な変化が次々に起こります。その1つが農耕牧畜という新たな生業スタイルの登場です。現代社会の基礎となる食糧生産社会の始まりとも言えます。と同時に、不平等社会、人口の急増、様々な疾病の出現など、現代社会が抱える多種多様な問題の根源となった出来事でもあります。ユーラシア大陸西部では、西アジアが農耕牧畜の起源地です。ここではムギの栽培化とヒツジの家畜化が開始されました。
 さて、この新しい生業スタイルは、西アジアを起源に、周辺地域へ拡散していったことが知られています。その根拠は単純明快で、最も古い農耕牧畜の証拠が西アジアの遺跡から発見されており、西アジアを中心に、周辺に離れるにしたがって、その証拠の登場する年代が遅くなるからです。例えば、西アジアでは紀元前8000年頃にはすでに農耕牧畜に依存した暮らしを送っていた人々がいました。それに対して、西アジアから遠く離れたブリテン島では、栽培ムギや家畜が現れるのはずっと遅く、紀元前4000年頃より後のことです。
 西アジアに起源した農耕牧畜は、確かに広い地域に拡散しました。ではどのようにしてこの生業スタイルは伝わっていったのでしょうか。かつては、農民が無人の荒野を前進するがごとく農耕牧畜を各地へ伝えていった、ということも考えられていました。言いかえると、「移民農民による農耕牧畜の拡散」説。この説は、コーカサスの農耕牧畜の始まりをめぐる論争では、特に支持されてきました。今では一般に、農耕牧畜拡散の実態を解釈する説には、生業スタイルの異なる2つの集団が登場します。ひとつは、農耕牧畜という新技術のノウハウを知っている「外来の農耕民」、もうひとつは、伝統的な野生資源の獲得を行っている「地元の狩猟採集民」です。この二集団がどのような関係にあって農耕牧畜が広がっていくことになったのか、ここに農耕牧畜の拡散をテーマにしている考古学者の興味が集中しています。私もこのような興味の下で、農耕牧畜がアルメニアでどのようなプロセスを経て出現するに至ったのかを解明したいと考えています。ちなみに、農耕拡散と言語の拡散という興味深いテーマを扱った書籍がありますので、興味のある方はぜひ一度ご覧ください(ベルウッド 2008『農耕起源の人類史』京都大学出版会)。

丘陵地帯での考古学踏査
 この9月に2週間という短い期間でしたが、遺跡を探す考古学踏査を実施しました。この調査は、次に予定している本調査の予備調査として、調査地域のポテンシャルをみることが目的でした。
 9月のアルメニアは、例年、8月の猛暑がひと段落して、すっきり晴れた日が多いですが、今年は早々と雨の多い季節に入りました。踏査中に何度も大雨に降られ、久々にずぶ濡れになりました。そんな時、避難場所になるのは、洞窟や大岩の下(岩陰)といった先史時代の遺跡が見つかりそうな場所です。急いで逃げ込むと、だいたいすでに先客がいます。羊飼いやその飼い犬です。


写真2 アルメニア人考古学者と渓谷沿いを延々と歩く

写真3 遺跡が見つからず、ついにキノコ狩りをはじめるカレン

写真4 村の中のハチュカル

写真5 獲物をさがすタカ

写真6 ヒツジの群れ。右奥に羊飼いの姿が見える

写真7 たわわに実ったリンゴの木

写真8 踏査地域の渓谷。左手に洞窟が見える。

写真9 完新世初頭と予想される遺跡の遺構

 今回の調査地は、エレバンからそう遠くない丘陵地帯です。エレバンが位置するアララト盆地は、アルメニア台地最大の盆地で、アルメニア国内でテル型遺跡(遺丘)が最も多く発見されている場所です。今のところ最も古い農耕牧畜遺跡もここで発見されています。アルメニアの農耕牧畜遺跡は、突如紀元前6000年頃にアララト盆地に現れるとされています。このことから外来の農民がこのアララト盆地に移り住んだ結果だと考える人が多いようです。しかし私は、このアララト盆地の周辺に広がる丘陵地帯に、より古い農耕牧畜遺跡があるだろうと予想しています。
 そこで今回のプロジェクトでは、丘陵地帯を調査地域に選びました。丘陵地帯と言っても広いので、アルメニア隊がかつて完新世初頭と思われる遺跡を1つ発見した場所を中心に、渓谷沿いに踏査することにしました。
 遺物が落ちていないかと、下を向いて延々と歩き続けます(写真2)。今回は、エレバン大学大学院の学生でもあり考古・民族学研究所の研究員でもある若者たちと調査を行いました。その1人、カレン君は、昨年のエレバン滞在中に仲良くなった若者です。縁あって彼は、東京文化財研究所が主催するキルギス共和国での考古学実習にも参加しています(写真3)。趣味が遺跡探しという彼の参加は、とても助かりました。
 しかし遺跡は、なかなか見つかりません。次第に疲れてきます。疲れると立ち止まって、周りの景色を見ながら休憩をとります。踏査中にはいろいろなものが目に留まります。稀にアルメニアの文化遺産を代表するハチュカル(十字架石)を見つけます(写真4)。キツネ、タカなどの野生動物も見かけます(写真5)。また、ヒツジやウシの放牧にも出会います(写真6)。それから、果樹園からリンゴやブドウをもらうことも楽しみです(写真7)。アルメニアの果物は、本当においしいのです。踏査中に、マッシュルーム(のようなキノコ)の群生地を見つけたことがありました。アルメニアの若者たちは、大はしゃぎでした。大きく立派なキノコばかりで、残らず刈り取って2キロほどになりました(写真3)。夕食にみんなで焼いて食べると言っていましたが、私は遠慮しました。もし毒キノコだったら・・、と考えてしまったので。翌日、全員元気に揃ったところみると、本物のマッシュルームだったようです。
 踏査では丘陵地帯の標高の高いほうから低いほうへ渓谷沿いに下っていきました。およそ標高1500メートルからアララト盆地へと繋がる標高1000メートル地点まで移動したことになります。この10年間の調査で、こういった丘陵や山岳地帯には洞窟や岩陰遺跡があることが分かりました(写真8)。実際にそのいくつかを発掘しましたが、いずれも規模がとても小さい遺跡で、短期間のキャンプに使われた場所だと考えられます。私が今回探しているのは、こうしたキャンプサイトではなく、ある程度の規模の集団が居住していた集落遺跡です。コーカサスでは、完新世初頭の集落遺跡の発見がほとんどありませんが、周辺地域では、通年または一年の大半を過ごしていたと考えられる集落跡が発見されています。
 こうした集落遺跡を見つけるのは容易ではありません。洞窟遺跡や西アジアにあるテル型遺跡(遺丘)の場合、その見た目の特徴から、発見することは比較的容易です。しかし、地表面に大きな痕跡を残していない遺跡の場合は、丹念に歩き、落ちている遺物を確認していくしかありません。今回のプロジェクトで、アルメニア側の代表者である考古学者ボリス・ガスパルヤンは、遺跡を探して30年という人で、アルメニア中を歩いてきたフィールド・ワーカーです。そんな彼でも未だに完新世初頭の集落遺跡を見つけたことはありません。
 ソビエト時代に作成された地形図とパソコンの画面に表示させたグーグルマップを見ながら、遺跡のありそうな場所を探していきます。グーグルマップはインターネットに接続して、すぐに発見した遺跡の場所を衛星写真上で確認できるので、踏査ではとても役に立ちます。渓谷の両側に広がるテラス状の地形のうち、やや窪地になっている場所で、しばしば考古遺物を見つけることができました。今回の踏査では、約10地点の遺跡と思われる場所を確認できました。

次の調査に向けて
 今回の踏査を終えて、改めて、目標とする完新世初頭の遺跡を見つけることは難しいと痛感しました。それでも今回、完新世初頭に位置づけられそうな遺跡を二か所発見できたのは収穫でした。そのうちの一か所では、石造りの遺構が確認でき、さらに、動物の掘った穴から、人工遺物や動物の骨、灰などが地表に出ていました。おそらく堆積層をもつ有望な遺跡ではないかと思います(写真9)。
 また、興味深いのは、石造りの円形遺構が露出している遺跡が何か所かで確認されたことです(写真1)。その立地に特徴があり、常に涸れ川の近くで、背後に岩山のある場所に位置していました。採集した遺物は、完新世初頭よりだいぶ後の中期青銅器時代(紀元前2千年紀)のものが多いようです。アルメニアの中期青銅器時代は、古墳時代と言ってよいほど、多数の古墳(クルガン)が造られた時代です。しかし、集落遺跡がほとんど見つかっていません。ひょっとすると、今回発見した円形遺構からなる集落が、この時代の特徴なのかもしれません。
 次回は来年3月に考古学踏査の続きを予定しています。今回の調査で、遺跡の立地していそうな場所の見当がついたので、次回は、もっとたくさんの遺跡が発見できるのではと期待しています。
 ただひとつ心配なのは、その時期まだ雪が残っているかもしれないということです。雪があると地面が見えませんから、踏査はできません。平地にある首都エレバンが雪に埋もれることは、近頃は地球温暖化のせいか、ほとんどなくなりました。しかし、丘陵・山岳地帯は違います。1メートル近く積もることがあります。今はただ、この冬が豪雪でないことを祈るばかりです。

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