アルメニア来訪紀

 松村 惠里

「今度、アルメニアに行きます」「えっ、どこ?」、「エチミアジンに行くんです」「えっ、何人(なにじん)?」アルメニア渡航前に、なんども友人・知人とこんな会話を交わしたような気がします。2016年2月のアルメニア渡航が決まり、準備にかかりましたが、私にとっても初めてのアルメニア行であり、当時は色々問いかける友人たちに、笑いながらもほとんど的確に答えることができなかったのが正直なところでした。

アルメニア共和国は、黒海とカスピ海にはさまれた南コーカサス地方に位置し、ジョージア(旧名グルジア)、アゼルバイジャン、トルコ、イランなどに囲まれ、1991年にソビエト連邦から独立した小国です。世界で初めてキリスト教(アルメニア正教)を国教としたことや、19世紀末と20世紀初頭にかけて起きたオスマントルコによるアルメニア人虐殺(ジェノサイド)問題、アゼルバイジャンとの領土問題、老朽化が進むメツァモール原発問題などについての大まかな情報以外(いや、それすらも)、日本ではあまり知られていないといっても過言ではないのではないでしょうか。 もともと私自身、アルメニアに関しては「遺跡や石」のイメージが強く、ジェノサイドや領土問題など、軽々しく口に出来ないような問題についても、当初、詳しい知識を有しておらず、準備のために、知れば知るほど重々しいイメージは増していきました。しかし、同行させていただくこととなった保存・修復の専門家、石井美恵氏と横山翠氏から現地の様子をお聞きするにつれ、アルメニアの重々しいイメージは薄れてゆくと同時に、現地に渡ったことによって、私のアルメニアイメージは一気に変わってゆきました。

さらに、私の研究との大きな接点が確認できたことも大きな収穫の一つでした。本調査において、エチミアジン大聖堂付属博物館に所蔵されている染色布の何点かが、南インドで製作され、私の調査対象である染色技術を用いていることが、本調査で明らかになってきたのです。そこにはアルメニア商人達が作り上げたアルメニアンコミュニティがかかわっており、基本的にキリストの磔刑図が描かれ、布には製作地と製作年次、寄進者の名前がアルメニア語で明示されています。これは、インドで製作される染色布のスタイルには見られないものであり、今後、その歴史と染色技術についての調査を進めてゆきたいと思っていますが、今回の染織品の調査に関しては、別途作成する調査報告書に詳細を記載する予定です。

今回我々は、2016年2月24日から3月1日にかけて、エチミアジン市、アルメニア正教会エチミアジン大聖堂付属博物館の招聘で、金沢大学・超然プロジェクトと国際文化資源学研究センター、東京文化財研究所の合同調査のためにアルメニアを訪れることになりました。金沢大学からは教員1名、学生3名、東京文化財研究所からは保存・修復の専門家2名、計6名が参加しました。 到着ヴィザを取得し、深夜、首都エレヴァンのホテルに着いた我々を、翌朝、迎えに来てくれたのは、現地の「いろはセンター」で日本語を学んでいる学生たちでした(写真1)。彼らは、通訳を引き受けてくれた学生たちで、なかには驚くほど日本語の達者な学生もおり、遠く離れた地で、よく小さな島国の言葉を学んでくれたものだと、感動すら覚えました。まだ高校生くらいでも一生懸命に自国の歴史や文化を、日本語で伝えようとする学生もいました。私がインドに留学していた時は、時々、日本語を勉強している学生が私の部屋にやってきて、「日本人の多くは、日本のことを知らない。どうしてですか?日本語も知らない。文化も知らない。どうしてですか?興味がないの?聞ける人が少ないです!」と嘆きながら質問をどんどんぶつけてきたものです。一つひとつ答えると、ようやく満足げに帰っていきましたが、彼の言葉は、私自身にも突きつけられる問題として強く記憶に残っています。このような経験に鑑みると、まだ弱冠10代の学生が、誇りをもって懸命に自文化について語ろうとする様子は、穿った見方はさておき、学ぶべきところが多々あると感じられ、この国が経験してきた歴史の複雑さも垣間見た気がしました。アルメニア文字の創始者であり、アルメニアの誇りとされるマシュトツについて聞かれた際に、「ごめんなさい。よく知らないの」と情けない気持ちで答えると、びっくりしたように「ホントに?マシュトツのことですよ?」といい、とても悲しそうな顔をした姿が今でも忘れられません。 淡いピンクの凝灰岩でつくられた建造物が多い首都エレヴァン(写真2)は、ヨーロッパの古風な洒落た香りと、厳格なソビエト連邦下の共産圏の雰囲気を同時に漂わせる街でした。ブランド店や高級レストランが立ち並ぶ通りでは、着飾った男女が颯爽と歩き、豊かな経済状況の人びとがいると感じさせる一方で、郊外に出るための大通りの両脇に並ぶ家々の様子からは、味気無さや時に経済的な問題も感じられました。物価は決して高くはないですが、一般的な収入が比較的低いため、安価な軽食を買うことはあっても、外食はかなりの贅沢と考えられており、そのため家庭で食事をとることが一般的ということでした。特に果物が豊富で、湿気の多い日本ではドライフルーツを作ろうとしても黴びてしまうことが多いですが、乾燥した気候のアルメニアでは、果物を自宅で干して作ったドライフルーツは当たり前のように女性たちによって作られ、自家製のジャムもパンやお茶に添えるなどして楽しまれています(写真3)。その他、アルメニア料理というと、ラヴァッシュという薄く焼かれたパン、葡萄の葉でご飯やひき肉を包んだドルマ、水餃子のようなキンカリ、アルメニア名物サラダストリチーニ、きのこや肉のバーベキュー、野菜のピクルスなどが有名ですが、その作り方や食べ方には、ギリシャ、トルコ、その他のイスラーム圏料理との類似点が多いように思われました(写真4)。このような食に見られる特徴には、商魂たくましいアルメニア商人たちの交易の影響があるのかもしれません。

領土問題等で観光地の範囲が狭められていることや、観光化を推し進めてゆくうえでの足かせになっているいくつかの要素に対しては危惧が残りますが、おそらく微々たるお小遣いしか持たない学生が、「どうしてもアルメニアを忘れてほしくないんです」と、街を歩き回って、我々日本人全員にアララト山(ノアの箱舟で有名)が描かれた小さなお土産を選んでくれる姿を目の当たりにすると、もっとこの国をたくさんの人が知ってくれたら、と思わずにいられませんでした。本格的に調査する場合などとは異なり、私はほんの短い間滞在しただけでしたが、自身の研究との近接点も確認し、少し日本人に似てシャイなところがある人々を知り、素朴な食べ物を楽しむことができたアルメニアは、自身のフィールドで調査を始めた頃の未熟ゆえに新鮮な気持ちを、久しぶりに呼び起こしてくれた様な気がしました。


写真1 いろはセンターの学生たちとの記念写真


写真2 エレヴァン市街


写真3 お茶請けの菓子類


写真4 アルメニア料理